『パイナップルの彼方』(山本文緒)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/06
『パイナップルの彼方』(山本文緒), 作家別(や行), 山本文緒, 書評(は行)
『パイナップルの彼方』山本 文緒 角川文庫 2022年1月25日改版初版発行
生きづらい現実から、それでも逃げない 「私」 の物語。
父親のコネで入った信用金庫で安定した収入を得、趣味のイラストで副業もこなし、実家を出た1人暮らしの部屋には優しい恋人が訪ねてくる。上司や同僚ともうまくやり、居心地のいい生活に満足する深文(みふみ)だったが、1人の新入社員の女性が配属された時から、ゆっくりと周囲のバランスが壊れていく・・・・・・・。毎日、現実から逃げたいと思っていても、実際に逃げ出したりはしない。そんな誰もが抱える日常を見事に描き出した長編小説。(角川文庫)
あとがきにはこんな話が綴られています。
具体的な理由は特になかったのだが、高校生の私は毎日がつらくてたまらなかった。成績は普通、友達もいる、苛めにあっているわけでもない、家族とも問題はない。それで毎日が 「つらい」 なんて言うのは甘えでしかないと自覚していたので、口に出すこともできなかった。原因が分かっていたら対処のしようもあるが、その理由が自分でも分からないだけに余計につらかった。
その頃私は、一枚のレコードに出会った。かまやつひろしの 『パイナップルの彼方へ』 というアルバムだ。今では大して珍しいことではないが、当時はそれがハワイで録音されたというだけで、かなり変わっているアルバムだった。
ジャケットの表側は、夕暮れのハワイの空、裏側は赤いコンバースのハイカットの写真だった。私はジャケットをうっとりと眺め、毎晩そのレコードを聞いて眠った。録音されている波の音に耳を澄ますと、何故だかとても気持ちが落ちついた。
今ほど海外旅行へ簡単に行けるような時代ではなかっただけに、ハワイに対する憧れは大きくなった。そこに行きさえすれば、きっと救われるのではないかと根拠もなく思い込んだのだ。
*
今なら分ることが沢山ある。私は何から逃げだしたかったのか。それは、十代の私が漠然と思い描いていた未来から逃げだしたかったのだ。予想どおりの大学に進学し、予想どおりの企業に就職し、予想どおりの相手と結婚して子供を生み、予想どおりに年老いて死んでいく。思ったとおりに物事が進んで行き、一生そこから出られないことを私は恐怖していたように思う。ハワイ、という場所は象徴でしかなく、それはウィーンでも北京でもどこでもよかったのかもしれない。育ってしまった国の、自然と身についてしまった価値観、ちょっと気を抜くと襲ってくる実体のない圧力や、細かくてくだらない、でも守らないと人々から浮いてしまう沢山のルール、そういうものから私は逃れたかったのだと思う。
深文には短大時代からの友人が二人います。月子となつ美。深文を加えた三人は、学校を出てそれぞれ就職し、そして三年目の夏、なつ美が突然結婚することになります。
二十三歳での結婚は如何にも早いのですが、なつ美は弾みで結婚を決意したわけではありません。彼女の夢は、若いうちに結婚して子供をたくさん作り、TVで流れるCMみたいな家庭を作ることでした。彼女は、(彼女が理想とする) 花婿の妻になり、段取りよろしく、来年早々には母親になります。
月子は 「ハワイに行く」 といいます。(英語学校へ) 留学すると聞いた時、深文はすぐにピンときました。月子は逃げるのだと。彼女はもう四度、会社をかわっています。人間関係がうまくいかない、会社の方針が気に入らないなどと理由を付けて辞めたあげくのことでした。
“男” の方も、事情はそれによく似ています。月子は驚くほど早いサイクルで恋人を作っては別れることを繰り返しています。そして転職と同じで、別れる度に交際期間はどんどん短くなっていきます。月子の場合、真面目さや一途さ、すぐに白黒付けたがる極端さが仇となっています。
そしてこの物語の主人公・深文はというと - 比較的穏やかな前半とは異なり、後半は急転直下、ミステリアス&サスペンスフルな展開が待ち受けています。なつ美と月子のその後を含め、三人三様に、逃げ出したくても逃げられない人生の、それでも続く日々の様子が描き出されています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆山本 文緒
1962年神奈川県生まれ。2021年10月13日(58歳)没。
神奈川大学経済学部卒業。
作品 「恋愛中毒」「プラナリア」「アカペラ」「ブルーもしくはブルー」「自転しながら公転する」他多数
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