『文身』(岩井圭也)_書評という名の読書感想文

『文身』岩井 圭也 祥伝社文庫 2023年3月20日初版第1刷発行

この小説に書かれたことは必ず実行しなければならない。たとえ殺人であっても-。

新感覚ミステリーの傑作、誕生! 
井上荒野氏絶賛 - 書かれる兄と書く弟。私もまた小説に侵食されている。

己の破滅的な生き様を私小説として発表し続けた文壇の重鎮、須賀庸一。彼の死後、絶縁状態にあった娘のもとに、庸一から原稿の入った郵便物が届く。遺稿に書かれていた驚くべき秘密・・・・・・・それは、すべての作品を書いたのは約六十年前に自殺したはずの弟だということ。さらには原稿に書かれた内容を庸一が実行に移し、後から私小説に仕立て上げていたという “事実” だった・・・・・・・。(祥伝社文庫)

文身:身体に彫りものをすること。また、その彫りもの。いれずみ。

昭和三十八年。日本海に面した町。高校二年の兄と中学三年の弟がいる。凡庸で、誰からも顧みられない兄、庸一。利発で、両親の期待を背負っている弟、堅次。ふたりとも、自分の人生に満足していない。「凡庸の庸」 と 「堅実の堅」 を息子たちの名前にする両親にも、何もない田舎の町にも。(後略)

「こんな田舎で朽ち果てるんは、まっぴらや。それくらいなら死んだほうがましや。・・・・・・・」 と堅次は言い、「じゃあ、どうなる」 と庸一は聞く。「〈トンネル王〉 になるんや」 と堅次は言う。トンネル王とは、兄弟が学校をさぼって観た映画 『大脱走』 の劇中、第二次大戦中ドイツ軍に囚われた捕虜たちの脱出路を作ったふたりのことだ。ダニーとウィリー。この名前は、この先も小説中で重要なキーワードとなる。

特殊な設定ではない。少なくない読者が、この兄弟の心情に共感するだろう。ここではないどこかへ行きたい。自分ではない誰かになりたいと、人生のどこかで一度でも願ったことがない者はいないだろう。

ただし誰もが、その願いを叶えられるとはかきらない。往々にして叶わない。庸一はとうからあきらめていた。堅次はあきらめられなかった。叶えるために、堅次が - 結果的に兄弟が - 選んだのは、「小説」 という方法だった。

侵食、という言葉を、私は読みながら思い浮かべた。
庸一は堅次に侵食されていく - 正確には、弟が書く
私小説 に。実体験に基づくこと。これが私小説の条件や。そういう縛りを設けることで、作品は圧倒的な現実味を帯びる。(中略) なかには、破滅的な小説を書くために、破滅的な生活を送った作家もおると堅次は言う。これ以上に強靭な虚構はない と。

小説に侵食される。
それは小説家としての私が日々、経験していることでもある。私は原則的に私小説は書かないけれど、創作の一部に自分の経験を使うことはある。もちろんそのままは書かない - 小説にうまく嵌め込めるように、調整する。するとそのあと、小説に書いたその場面が、本来の記憶にとってかわる、ということが起きる。

自分が書いた小説の登場人物の感情が、記憶の中の自分の感情を上書きしてしまう。あるいはほとんど記憶のまま、かつて起きたことを書いたとしても、言葉ひとつの選択によって、その風景の色合いが微妙にずれていく。(井上荒野/解説より)

作家・須賀庸一は、堅次が書いた私小説そのままに、物語の主人公・菅洋市の人生を生き抜いたのでした。その生き様は傍若無人を極め、業界からは “最後の文士” と呼ばれ、小説家としての地位を不動のものにします。

しかしそれは、庸一の人生であって、庸一の人生ではありません。須賀庸一は須賀庸一という同じ名前の別人となり、「堅次が描く菅洋市の人生を後追いで模倣した」 ものに過ぎません。

後悔し、葛藤もする中で、それでも庸一は、今さらに堅次とした約束をご破算にすることができません。ご破算にするだけの自分というものを、端から庸一は持ち合わせていなかったからです。彼が彼ひとりなら、庸一は何の取り柄もない、つまらないだけの人間でした。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆岩井 圭也
1987年大阪府生まれ。
北海道大学大学院農学院修了。

作品 「永遠についての証明」「プリズン・ドクター」「水よ踊れ」「この夜が明ければ」「竜血の山」「生者のポエトリー」「夏の陰」他

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