『R.S.ヴィラセリョール』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『R.S.ヴィラセリョール』乙川 優三郎 新潮社 2017年3月30日発行

レイ・市東・ヴィラセリョールは房総半島に染色工房を構え、成果をあげかけていた。その矢先、父は病身をおして独りフィリピンへの一時帰国を望む。運命を狂わされ、独裁政権から逃れてきた父を駆り立てるものは何か。現代琳派に共鳴しつつ、母の国の伝統に立ち向かう娘のめざすところとは。広がり深まる乙川文学の最新長篇。大佛次郎賞、芸術選奨に輝く著者がさらに掘り下げた民族と家族、技芸の世界。(新潮社)

この小説は、メスティソ(混血)である彼女が、日本とフィリピン、真に二つの国を思う魂の物語です。そして物語にはもう一人、彼女の父、リオ・ヴィラセリョールが登場し、かつて彼が祖国で味わった、呪うべき過去の歴史が明かされてゆきます。

ヒロインの名前は、レイ。彼女は染色を生業にし、ようやくにしてその実力を銀座の老舗・久勝に認められるまでになっています。大学では染色の様々な技法を学び、江戸更紗の老舗・更真で腕を磨いた彼女は、日本の伝統工芸を極め、更に刷新しようと考えています。

どうにか型染めの工房を開いて、はじめて名刺を作るとき、彼女は市東鈴(しとうれい)にするか、レイ・ヴィラセリョールにするか随分悩んだ末に、レイ・市東・ヴィラセリョールと印刷した。

市東は母の姓で、父がフィリピン人であった。今どき珍しくもない二股のアイデンティティを持ち、そのことに苦しみながら、曖昧な存在を生きてきた歳月に区切りのスペースを設けたかった。

しかし、それは思う以上に容易なことではありません。最初彼女の作品は評価の対象にすらならず、相手にされない日々が続きます。これこそはと思う図案や色彩はおしなべて否定され、作ったところで(そんな着物を)着る人はいないだろうと言われてしまいます。

試行錯誤が続く中、やがて彼女の作品は久勝の主人の目にとまり、彼女の「母国」と題した羽尺が、工芸展で奨励賞を受賞します。(羽尺:羽織や和装コート用の生地のこと)思いもよらぬ僥倖が続き、漸うのこと、房総半島で始めた工房の仕事が回り出します。

レイは、折に触れ、父であるリオを疎ましく思うことがあります。日本で生まれて日本で育った彼女は日本語で物を考えますが、父は未だに英語を使い、タガログ語で考えます。日本語でたいていの話はできるのに、そうします。

それは母語を捨てられないというよりも、彼の人格の中にフィリピンが太い根を下ろしているからであって、レイが嫌なのは父がいつまでも自分が生きてゆく社会にふさわしい考え方をしようとしないことで、彼女には父が使う言葉のせいであるように感じられます。

日本に家庭を築きながらフィリピン人であり続ける父に改めようとする気配はまるでなく、今でも心の半分は祖国の弟一家をはじめ、ハワイやグアムやカリフォルニアに飛散した親族と強く繋がっています。それが娘と父との間の、縮められない距離になっています。

しばらくの後、その父が癌であるのがわかります。早期発見とは言えない癌で、完治の可能性は五分五分だろうと医者は言います。深刻な事態であるには違いがないのですが、五分五分の勝負ならリオは勝つだろう、とレイは思っています。

そう思うだけの根拠がそれまでの父の生きざまにはたしかにあり、人間として好きになれない父親の運命を案じている自分に、レイは、どこかしらほっとする思いでいます。

手術を終え、無事退院。病後のリオは結構な食欲と気力を取り戻しています。平穏な暮らしが戻ったと思う矢先のこと、今度はリオが半月の帰郷を計画し、来週には出発すると言い出します。

理屈ではなく、ひとりで故郷を見たい。ナイ(君枝のこと)は連れて行かないと言います。

もう若いとは言えない彼が国を思うことには恐らく様々な意味があって、レイが旅行気分でフィリピンへ行くのとは根本的になにかが違う。
(日本にいるリオは)何十年と暮らしていても違和感の塊であり、帰るべきところを別に持つ人であった。日本語を話し、日本女性を愛し、麺類(パンシスト)をすすっても日本人には見えないし、なれない。だから永遠に郷愁がつきまとう。

レイは、リオの性急な帰郷を病後の焦りと晩年の侘しさのためではないかと見ています。しかし、(後になってわかるのですが)リオの思いはレイのそれとはまるで違っています。

父・リオの帰郷は、レイの知らない、かつて父が味わった祖国・フィリピンでの、戒厳令下の辛く悲惨な過去へと繋がってゆきます。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「五年の梅」「生きる」「蔓の端々」「脊梁山脈」「ロゴスの市」「太陽は気を失う」「トワイライトシャッフル」他多数

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