『レディ・ジョーカー』(高村薫)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『レディ・ジョーカー』(高村薫), 作家別(た行), 書評(ら行), 高村薫

『レディ・ジョーカー』(上・下)高村 薫 毎日新聞社 1997年12月5日発行

言わずと知れた、高村薫の大傑作。高村薫が書く小説には高い文学性があり、ミステリーやサスペンスの枠組みを凌駕して、読む者すべてに人の生きざまの根源を示してくれているように感じられます。

概してそれは不幸で報われないことが多いのですが、読者はその人物に自分を重ね、定められた運命を呪ったりもします。人の心は弱く、絶えず不安で、ときに内なる矛盾や狂気を抱え、もがき苦しんだりします。高村薫はそれを執拗に、余すところなく描いてみせます。

この小説は実際に起きた事件、「グリコ・森永事件」から着想を得て書かれた作品だと言われています。

物語は、大手ビール会社・日之出ビールで労働組合運動に関わった兄の死をきっかけに、弟である薬局の店主が営利誘拐を計画することから始まっていきます。一方、標的となった日之出ビールの社内は、時を同じくして総会屋絡みの利益供与事件に揺れています。二つの事件が複雑に交錯するなかで、登場人物たちの人間模様が克明に描き出されていきます。

※『レディ・ジョーカー』というタイトルは、誘拐犯グループの呼称。犯人グループの一人、トラック運転手の布川の娘につけられたあだ名が「レディ」。布川の娘は障害児で、それを布川が「ジョーカーを引いた」と例えたことがきっかけでした。それに加え、誘拐犯たちが社会からみて「ババ抜きのジョーカーみたいな存在」だと、自分たちを皮肉って名付けたものでした。

高村薫の小説をよく読んでおられる方ならご存じでしょうが、この作品には「合田雄一郎」という刑事が登場します。『マークスの山』『照柿』に続いて3作目。この合田刑事の「硬質なロマンチシズム」が、この小説を何割増しにも魅力的にしています。(と、私は確信しています) 彼の登場は、200ページを過ぎたあたり、第三章からです。

単行本の上下巻合わせて850ページ余り、しかも二段組みの大長編です。主な登場人物を紹介しましょう。

岡村清二/事件のきっかけとなった人物。元日之出ビール社員。青森出身で、東北大学理学部を卒業して日之出ビールに入社。労働運動に関わったとして解雇されています。誘拐犯グループの主犯格、物井清三の兄。

《レディ・ジョーカー》を名乗る誘拐犯グループ。彼らは、競馬場で出会います。
物井清三/岡村清二の弟で、物井薬局の店主。事件は、物井の一言から始まります。
布川淳一/トラック運転手。元自衛官で、障害を持つ娘と病弱な妻を抱えています。
松戸陽吉/物井薬局近くの町工場で働く旋盤工。通称「ヨウちゃん」。
半田修平/蒲田警察署強行犯捜査係の刑事。
高克己/慶應卒の信用金庫職員。在日韓国人。

《日之出ビール》の役員。特に、この二人に注目して読んでください。
城山恭介/代表取締役社長。犯行グループによって誘拐され、現金20億円を要求されます。
杉原武朗/ビール事業本部副本部長兼取締役。城山社長の義理の弟。

日之出ビールという巨大企業に翻弄される人々。
秦野浩之/歯科医。日之出ビールに脅迫文とテープを送りつけ、その後自殺。
秦野美津子/浩之の妻で、物井清三の娘。
秦野孝之/浩之の息子。日之出ビールの二次面接前に途中で退席、その後事故死。
杉原佳子/孝之の交際相手。日之出ビール役員・杉原武朗の娘。
これ以外にも、総会屋や代議士、新聞記者、そして合田刑事を含む警察関係者と、多くの人間が登場します。
・・・・・・・・・・
《レディ・ジョーカー》を名乗る誘拐犯グループは、普通なら企業の社長を営利目的で誘拐するなどという大胆な犯罪とは縁遠いところにいる人物たちです。十分ではないにせよ、それぞれ確かな生活の基盤を持ち、凶悪でも残虐でもなく、むしろ地味で堅実に生きている人物ばかりです。彼らは一体何に突き動かされて、誘拐などに手を染めたのでしょう。その結果、彼らが得たものは何だったのでしょうか。

一方、日之出ビールという大企業の中で繰り広げられる総会屋絡みの事件では、巨大な組織のルールに翻弄されて、身動きが取れなくなる人間の姿が浮き彫りになります。組織にあっては、一人の人間の何と小さなことか。意に添わぬまま、自分を無にして責務を全うする先に、それまでに払ったいくつもの犠牲を補って余りある報奨が与えられるとでも言うのでしょうか。それとも企業への献身的な貢献に比べたとき、個人的な事情など瑣末なことで、気にかける時間さえ惜しまれる疎ましいものでしかないのでしょうか。

とりわけ不幸なのは、秦野浩之の息子・孝之です。孝之の父・浩之も、孝之の交際相手・佳子の父・杉原武朗も、結局のところ孝之の死を受け止めることができません。生きる糧としてあるべき会社組織が、関係する人々から生きる気力を奪い取ることになります。

後先になりますが、冒頭の部分「1947年-怪文書」を、よく読んでください。旧字体で書かれた文章で読みづらいのですが、ここを丁寧に読むと、小説の底流を成す時代の空気が直接肌を刺すように伝わってきます。心に沁み入る文章です。

この本を読んでみてください係数  95/100


◆高村 薫
1953年大阪市東住吉区生まれ、吹田市に在住。
同志社高等学校から国際基督教大学(ICU)へ進学、専攻はフランス文学。

作品 「マークスの山」「照柿」「太陽を曳く馬」「冷血」「リヴィエラを撃て」「黄金を抱いて翔べ」「わが手に拳銃を」「新リア王」「太陽を曳く馬」「晴子情歌」「半眼訥訥」など多数

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