『月桃夜』(遠田潤子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/10 『月桃夜』(遠田潤子), 作家別(た行), 書評(か行), 遠田潤子

『月桃夜』遠田 潤子 新潮文庫 2015年12月1日発行

この世の終わりなら ふたりの全てが許される

奄美の海を漂う少女の元に、隻眼の大鷲が舞い降り、語り始めたある兄妹の物語。親を亡くし、一生を下働きで終える宿命の少年フィエクサと少女サネン。二人は「兄妹」を誓い、寄り添い合って成長したが、いつしかフィエクサはサネンを妹以上に深く愛し始める。人の道と熱い想いの間に苦しむ二人の結末は - 。南島の濃密な空気と甘美な狂おしさに満ちた禁断の恋物語、待望の文庫化。(新潮文庫)

日本ファンタジーノベル大賞 大賞受賞作

狭いカヤックのコクピットでため息をついた。奄美の浜を出たのは昼過ぎのことだったが、パドルを失って流されるうちに陽が落ちた。茉莉香はぐるりと海を見渡した。だが、何度眼を凝らしても同じだ。見えるのは半分の月と無数の星だけで、空と海の境もよくわからない。

ふいに涙が浮かんだので、茉莉香は慌てて荷物入れからスプレーボトルを取り出した。今朝、島で買った月桃水だ。たっぷりと顔や肩に浴びると、青く涼しい香りが滲んだ涙をごまかしてくれた。

- と、そのとき風を感じた。ついで奇妙な物音が聞こえた。なにかがはためくような、風で草が揺れるような音だ。そして、ほんのわずかだがカヤックが前方に沈んだ。

なんだろう、と顔を上げて茉莉香はぎょっとした。艇首に鳥が留まっている。しかも凄まじく大きい。カヤックに座った茉莉香と目線が同じ高さだ。翼を広げれば二メートルは越すだろう。月の光を浴びて、鉤型に曲がった嘴と鋭い爪が浮き上がる。巨大な猛禽類のようだった。鳥は静かに頭を上げると、茉莉香を真っ直ぐに見た。左の眼は潰れていて、額には黒っぽい染みのような模様がある。

サネン花の匂いがした  - 茉莉香が訊くと、大鷲は苦しそうな顔をして、だから来たのだと言う。
・・・・・・・・・
大鷲は、薩摩が天下を取れなかった頃のことを知っているという。その後訪れた戦争の時代を語り、茉莉香に対し、「おまえは道策という碁打ちを知っているか? 」と訊く。(道策とは、四世本因坊、名人碁所のこと)

鷲の眼は不機嫌の塊だったが、どこかに拗ねたような稚気が残っている。茉莉香はどんどん大鳥に引き寄せられていった。一体、この鷲は何者なのだろう。なぜ、話せるのだろう。どうして、海の上にいるのだろう。

いちゅび山登て、いちゅびもてくれちよ。
あだん山登て、あだんもてくれちよ。

鷲は裏声を使い哀切な調子を響かせた。裏声は奄美の島唄の特徴だ。聞く者に不安と陶酔を同時にもたらす、得体の知れない力がある。茉莉香は息苦しさを憶え、無意識に喉に手をやった。

いちゅびは野いちご、アダンは海縁でよく見かけるパイナップルのような実 - いちゅびやアダンだけでなく、奄美に暮らす当時の人々は、蘇鉄ですら口にしたという。実だけではなく、あの硬い幹さえも。

貧しい者にとっては、蘇鉄の粥はごく当たり前の食い物だったのだと。毎日、米を食う者がいるように、蘇鉄の粥や芋の粥を食っていた者もいるのだと、大鷲はいう。

茉莉香は安木屋場の海岸で見た、蘇鉄の群落を思い出した。急峻な斜面に張りつく蘇鉄の群れが海風に葉を揺らしている様子は、なぜか人がもがいているように見えた。あれは見間違いではなかったのだ。

※茉莉香がせがむので、鷲は黙ったあと、少しはにかんだようにして話し出します。「では、あるヤンチュの話をしてやろう」と。「おまえたちが天保と呼んだ頃だ。島にフィエクサとサネンという、幼いヤンチュがいた」 潰れた眼を海に向け、鷲はゆっくりと語りはじめます。

フィエクサは七つでサネンは五つ。鷲はフィエクサのことを(自分を卑下するように)やや悪く言います。「フィエクサは乱暴で、しょっちゅう怒っていた。ひねくれて、かわいげのない男だった。」と。それに対しサネンのことは、「だが、サネンは違った。温かく柔らかで、いつもよい匂いがした。薄桃色のサネン花のように澄み切って甘く、涼しい娘だった」と。

ヤンチュとは、当時の奄美にあった身分制で最下層に位置する人々の呼称で、彼らの人生は「衆達(しゅうた)」と呼ばれる成り上がり豪農の下働きに終始します。こうして、はるか昔の奄美にあった禁断の恋の物語が、いよいよと始まっていきます。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆遠田 潤子
1966年大阪府生まれ。
関西大学文学部独逸文学科卒業。

作品 「カラヴィンカ」「アンチェルの蝶」「お葬式」「あの日のあなた」「雪の鉄樹」「蓮の数式」「オブリヴィオン」他

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