『九年前の祈り』(小野正嗣)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2015/05/27 『九年前の祈り』(小野正嗣), 作家別(あ行), 小野正嗣, 書評(か行)

『九年前の祈り』小野 正嗣 講談社 2014年12月15日第一刷


九年前の祈り

 

芥川賞受賞作『九年前の祈り』を読みました。

舞台は、九州の大分県。県南に位置する(おそらく蒲江という)海辺の小さな町です。リアス式海岸の複雑な地形をしたこの町は、隣町と合併して市に格上げされますが、それに逆行するように過疎化と高齢化が進行する町です。(著者の小野正嗣が生まれて、育った町です。)
・・・・・・・・・・
35歳のシングルマザー・安藤さなえは、東京での暮らしを諦めて故郷の海辺の集落へ戻って来ています。一人息子の希敏(けびん)は、さなえがカナダ人のフレデリックと暮らすようになって3年が過ぎた頃にできた子供でした。希敏は、障害を抱えた子供でした。

さなえには一人、故郷に忘れがたい人物がいました。渡辺ミツ、みっちゃん姉(ねえ)と呼ぶ初老の女性です。9年前、さなえがまだ地元にいた頃、二人は一緒にカナダ旅行をしたことがありました。その旅行こそ、さなえにとって忘れられない大切な記憶でした。

小説は、旅行中のミツに関わる思い出とミツに惹かれるさなえの心象を中心に語られます。また、ミツという女性を通して小野正嗣は故郷の町も語っています。土地の風土や人の好さ、目ぼしい仕事がない地方の厳しい暮らしぶりが、ミツの言動から読み取れます。

カナダ旅行は国際交流推進を目的に教育委員会が募集したもので、臨時職員のさなえを含めて参加者は7名。外国語指導助手のジャックが引率で、20代はさなえだけ、あとは40代の後半より上、田舎の港町のおばちゃんグループの賑やかな旅行でした。

物語はカナダ旅行を振り返るシーンと現実の間を幾度も往来し、交錯します。あるとき現実は遠ざかり、さなえは夢想の世界へ迷い込んだりします。さなえが今の自分に動揺し、混乱している心の在り様が詳細に語られます。
・・・・・・・・・・
ミツの息子が脳腫瘍の手術を受け大分の大学病院に入院していると母から聞かされたさなえは、ミツに会いたさに見舞いに行こうと思い立ちます。見舞いには母の生まれ故郷の文島の、厄除けの効能があると言われる貝殻を持って行こうと思いつくのでした。

港に行くために希敏を車に乗せようとした途端、希敏の「スイッチ」が入ります。さなえの表現では「引きちぎられたミミズ」が現れて、希敏は激しい抵抗を示します。希敏は、変化が極度に苦手な子供でした。突発的に泣き叫ぶ希敏は、さなえの手にも負えません。

ようやく乗船したブルーマリン号の船室で、さなえは幻覚を見ます。船内はさなえと希敏の二人きりなのですが、そこへみっちゃん姉が現れるのです。そのきっかけは、カナダ旅行の飛行機の中で聞いた赤ん坊の泣き声でした。

文島に着いてもさなえの幻覚は続きます。みっちゃん姉が希敏を連れ去る映像に慄き、また大きな解放感にも包まれるさなえです。子を想う母のさなえと子を負担に感じる個としてのさなえが葛藤する優しくも痛々しいシーンです。
・・・・・・・・・・
モントリオールの教会で、赤いリュックを背負った小柄なみっちゃん姉が頭を垂れ、一心に祈る姿を、さなえは忘れることができません。大分の病院に入院しているミツの息子も、
小さい頃から人より発育の遅れた子供で、ミツはそれをひどく気にかけていました。

病んだ心とは反対に、希敏は可愛く天使のような容姿です。さなえの帰郷の理由を知りながらも、周囲の人々は希敏に優しく接します。気を病むミツを勇気づけたのもまた、共に暮らす隣人たちでした。希敏も、ミツの息子も地域の子、この土地の子供なのです。

生まれ故郷の田舎町の閉塞感、個人が個人ではいられない明け透けな暮らし。反して、それらを補う無私の心と太い連帯感。異国の血が混ざる、普通ではない息子を持つさなえは、この土地でこれからどんな風に生きて行くのでしょう。さなえは今、悲しみを感じながらも、悲しみのささやきを聞こうとはしていません。
・・・・・・・・・・
“地方の現実”-それは、地方の人しか分からない。小野正嗣は、そう言います。
私は職場の都合で2年間、大分県の別府市で暮らしたことがあります。観光港前のマンションから眺める別府湾と湾に隣接する鶴見岳の景色は絵葉書そのもので、平地が広がるだけの土地で生まれ育った私には、まるで別世界のようでした。

しかし、私は別府での暮らしの窮屈さにすぐ気付くことになります。すぐ前の海と後ろに迫る山々の間の狭い丘陵地に貼り付くように並ぶ住宅には余白がなく、絶えず見上げるか見下ろすかの視野域が胸を圧迫するように感じるのでした。
蒲江は別府からはるか遠く南の、宮崎に近い小さな海沿いの町です。

本書には「九年前の祈り」の他に、「ウミガメの夜」「お見舞い」「悪の花」の3編が収められています。

 

この本を読んでみてください係数 80/100


九年前の祈り

◆小野 正嗣
1970年大分県蒲江町(現佐伯市)生まれ。
東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科、パリ第8大学卒業。
現在、立教大学文学部文学科文芸思想専修准教授。

作品 「水に埋もれる墓」「にぎやかな湾に背負われた船」「森のはずれで」「マイクロバス」「線路と川と母のまじわるところ」「夜よりも大きい」「獅子渡り鼻」など

◇ブログランキング

いつも応援クリックありがとうございます。
おかげさまでランキング上位が近づいてきました!嬉しい限りです!
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

関連記事

『夜のピクニック』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『夜のピクニック』恩田 陸 新潮文庫 2006年9月5日発行 夜のピクニック (新潮文庫)

記事を読む

『歩道橋シネマ』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『歩道橋シネマ』恩田 陸 新潮文庫 2022年4月1日発行 歩道橋シネマ(新潮文庫)

記事を読む

『この世にたやすい仕事はない』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『この世にたやすい仕事はない』津村 記久子 新潮文庫 2018年12月1日発行 この世にたや

記事を読む

『ボダ子』(赤松利市)_書評という名の読書感想文

『ボダ子』赤松 利市 新潮社 2019年4月20日発行 ボダ子 あらゆる共感を拒絶する

記事を読む

『玩具の言い分』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『玩具の言い分』朝倉 かすみ 祥伝社文庫 2012年7月30日初版 玩具の言い分 (祥伝社文庫

記事を読む

『枯れ蔵』(永井するみ)_書評という名の読書感想文

『枯れ蔵』永井 するみ 新潮社 1997年1月20日発行 枯れ蔵 (新潮ミステリー倶楽部)

記事を読む

『シャイロックの子供たち』(池井戸潤)_書評という名の読書感想文

『シャイロックの子供たち』池井戸 潤 文春文庫 2008年11月10日第一刷 シャイロックの子

記事を読む

『携帯の無い青春』(酒井順子)_書評という名の読書感想文

『携帯の無い青春』酒井 順子 幻冬舎文庫 2011年6月10日初版   携帯の

記事を読む

『ここは、おしまいの地』(こだま)_書評という名の読書感想文

『ここは、おしまいの地』こだま 講談社文庫 2020年6月11日第1刷 ここは、おしまいの地

記事を読む

『緋い猫』(浦賀和宏)_書評という名の読書感想文

『緋い猫』浦賀 和宏 祥伝社文庫 2016年10月20日初版 緋い猫 (祥伝社文庫) 17歳

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

『坂の上の赤い屋根』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『坂の上の赤い屋根』真梨 幸子 徳間文庫 2022年7月15日初刷

『青い鳥』(重松清)_書評という名の読書感想文

『青い鳥』重松 清 新潮文庫 2021年6月15日22刷

『神の手』(望月諒子)_書評という名の読書感想文

『神の手』望月 諒子 集英社文庫 2022年7月12日第8刷

『腐葉土』(望月諒子)_書評という名の読書感想文

『腐葉土』望月 諒子 集英社文庫 2022年7月12日第6刷

『死刑について』(平野啓一郎)_書評という名の読書感想文

『死刑について』平野 啓一郎 岩波書店 2022年6月16日第1刷発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑