『悪い恋人』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/10 『悪い恋人』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(わ行)

『悪い恋人』井上 荒野 朝日文庫 2018年7月30日第一刷

恋人に わたしをさがさないで とわざわざ書き置きを残して失踪するとき、そのひとの心には あなたの言いなりにはもうならない という意思と、あなたに構ってもらえないのはもっといや というさらなる深層心理が二重写しになっているのではないか。文面からはそのふたつともが染み出しているはずだ。

そのとき失踪者自身に、あなたの本当の気持ちはどちらなのか と問うても、おそらく意味はない。自分では知覚しきれない無意識の領域で、逃げたいと逃げたくないの願望は複雑にからまりあい、言葉は二重の意味を帯びてしまっているのだから。

解説にある江南亜美子氏の言葉は、けだし至言である。

この小説の主人公、沙知もまた同様で、事に及んだときの自分の心境を正しく理解していたとは言い難い。いかに憧れの存在だったとはいえ、薄情に過ぎ、明らかに “それだけ” が目的の勲に対し、なぜそこまで固執したのか。何が彼女を駆り立てたのか。

彼女は、夫にも、義父母との同居にも、なんの不満もなかった。なのに、勲と肉体関係を持ったいま、どこか、家族の誰もが  “異様”  に見えるのはどうしてなんだろう。

あの男に 開発されて いく。 もう以前の 私には 戻れないのか。 満たされていたはずの生活が、異なる顔となって現れる。

会いたい。会うとセックスだけなのに、互いの心を覗けば、相手を思う気持ちの欠片もないのがわかるのに - それでもあの男に会いたいと思う、自分の気持ちがわからない。

自分がいまなにを欲しているのか、正確に把握できると考えることは、欲望というものの本質を甘くみている。欲望を手なずけるのはむずかしい。「わたし」 を突き動かすのは、むしろ意識にはのぼらない何ものかの仕業だと、(後略/解説の続き)

そして、その結果。その顛末。

昼ドラのような甘やかな不倫。そんなものは存在しないのだ。

白いスーツをまとった美貌の開発業者は、中学時代の同級生だった。沙知は、自宅裏の森を伐採するために現れた彼と再会したその日から、不可抗力のように肉体関係を持ってしまう。だが、そのことを機に、彼女の日常、そして家族たちもくるいはじめるのだった。宅地造成工事の反対にのめり込む義父母。そして、夫や息子もまた見知らぬ顔を覗かせるようになる。いつしか男は沙知への要求をエスカレートさせていくのだった。(アマゾン内容紹介より)

※この作品は、何気ない日常に潜む正常と異常の狭間に現れるただならぬ光景をとらえたアモラルな長編小説です。アモラルとは、罪の意識を持ちながら罪を犯す 「非道徳・不道徳」 をさす 「イモラル」 に対し、罪を悪いこととして捉えない 「無道徳」 をいいます。

この本を読んでみてください係数 80/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「虫娘」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数

関連記事

『渡良瀬』(佐伯一麦)_書評という名の読書感想文

『渡良瀬』佐伯 一麦 新潮文庫 2017年7月1日発行 南條拓は一家で古河に移ってきた。緘黙症の長女

記事を読む

『死神の浮力』(伊坂幸太郎)_書評という名の読書感想文

『死神の浮力』伊坂 幸太郎 文春文庫 2025年2月10日 新装版第1刷 累計150万部大人

記事を読む

『つやのよる』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『つやのよる』井上 荒野 新潮文庫 2012年12月1日発行 男ぐるいの女がひとり、死の床について

記事を読む

『木になった亜沙』(今村夏子)_圧倒的な疎外感を知れ。

『木になった亜沙』今村 夏子 文藝春秋 2020年4月5日第1刷 誰かに食べさせた

記事を読む

『私の頭が正常であったなら』(山白朝子)_書評という名の読書感想文

『私の頭が正常であったなら』山白 朝子 角川文庫 2021年1月25日初版 私の哀

記事を読む

『私以外みんな不潔』(能町みね子)_書評という名の読書感想文

『私以外みんな不潔』能町 みね子 幻冬舎文庫 2022年2月10日初版 他の子供に

記事を読む

『今だけのあの子』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『今だけのあの子』芦沢 央 創元推理文庫 2018年7月13日6版 結婚おめでとう、メッセージカー

記事を読む

『ユージニア』(恩田陸)_思った以上にややこしい。容易くない。

『ユージニア』恩田 陸 角川文庫 2018年10月30日17版 [あらすじ]北陸・K

記事を読む

『いつかの人質』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『いつかの人質』芦沢 央 角川文庫 2018年2月25日初版 宮下愛子は幼いころ、ショッピングモー

記事を読む

『銃とチョコレート 』(乙一)_書評という名の読書感想文

『銃とチョコレート』 乙一 講談社文庫 2016年7月15日第一刷 大富豪の家を狙い財宝を盗み続け

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『越境刑事』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『越境刑事』中山 七里 PHP文芸文庫 2025年10月22日 第1

『八月の母』(早見和真)_書評という名の読書感想文

『八月の母』早見 和真 角川文庫 2025年6月25日 初版発行

『おまえレベルの話はしてない』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『おまえレベルの話はしてない』芦沢 央 河出書房新社 2025年9月

『絶縁病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『絶縁病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2025年10月11日 初版第1

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子)_書評という名の読書感想文

『木挽町のあだ討ち』永井 紗耶子 新潮文庫 2025年10月1日 発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑