『獅子渡り鼻』(小野正嗣)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『獅子渡り鼻』(小野正嗣), 作家別(あ行), 小野正嗣, 書評(さ行)

『獅子渡り鼻』小野 正嗣 講談社文庫 2015年7月15日第一刷

小さな入り江と低い山並みに挟まれた土地に十歳の尊(たける)は連れて来られた。言葉が話せず体も動かせない兄と尊を、都会の狭い部屋に残していなくなった母があれほど嫌っていた田舎。豊かな自然と大人たち、霊的なるものに慈しまれ、尊は癒されていく。芥川賞受賞作『九年前の祈り』に連なる〈希望と再生〉の物語。(講談社文庫解説より)

主人公は、田村尊という10歳の少年です。彼には兄がいるのですが、おそらく発達障害か精神疾患を抱えており、言葉が話せず体も自由に動かすことができません。一日の大半は寝たままで、意思の疎通も儘ならない状態です。

シングルマザーの母・和香子と兄の3人で暮らしていた東京を離れ、尊がやって来たのは母の故郷である「鷹野浦」という小さな集落です。そこで暮らすミツコ-尊にとっては祖母にあたるような年配の女性-の家で夏休みを過ごすことになります。

なじみのない集落での生活が始まりますが、始まった途端に尊に不思議なことが起こります。尊の傍に、絶えず寄り添うような、謎めいた影が姿を見せるのです。

それは「文治」という、太平洋戦争前に集落で暮らしていて、随分早くに死んだという男性で、少年でもあり老人でもある不思議な姿をしています。

空港の到着ゲートに、ミツコの家の庭に、「文治」はふらりと現れます。尊以外の人たちには、その姿が見えている様子はありません。尊は、眠っている枕元に「文治」の気配を感じ、夢の中で「文治」に話しかけられたりします。

写真の中の文治は、尊とさほど年齢は変わらない丸坊主の少年です。写真には毅という名の、文治の弟も写っています。「兄と弟、あんたたちのところと同じじゃな」- そう言われてもおかしくないと尊は思うのですが、ミツコが兄の話をすることはありません。
・・・・・・・・・・
話は前後しますが、そもそも尊が「鷹野浦」へ来ることになったのは、母親の和香子が原因です。和香子の暮らしぶりは、決して褒められたものではありません。若い男に現を抜かし、子どもには僅かばかりの食費を与えるだけで、部屋には要らぬ物が溢れています。

若い男とはまた別の男と懇ろになり、それがバレたことが原因で居場所を変え、挙句に和香子は子どもを置き去りにして失踪してしまいます。そんな状況の中で、尊を母の故郷である海辺の集落に連れて帰るために、わざわざ上京して来たのがミツコです。

そして、地元の空港へ戻るや否や、尊は「文治」の影と出会います。そんなはずがないのに、尊はなぜか「文治」のことを知っている気がします。以前、東京で暮らしていた頃の夢で、尊は確かに「文治」の声を聞いているのです。
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この『獅子渡り鼻』という小説は、芥川賞を受賞した『九年前の祈り』が発表される2年前の作品です。2つの小説は、非常によく似ています。

破綻した家族であったり、障がいを抱えた子どもであったりの個々の状況もそうですが、いずれの作品にも漂う〈幻想性〉こそが何よりの特徴だと言えます。主人公の近くに現れる、謂わば〈幻覚〉のようなものが、時空を超え、読む者を神話に似た世界へと誘います。

小野正嗣は、単に生きている人間の関係性を描くだけでは捉え切れない、しかし間違いなくその繋がりの中に息づいている確かなものの在り処を証明しようとしているのではないか。その存在を固く信じることで、生きることの意味を糺しているのではないか。そんな気がしてなりません。

その「確かなもの」が、この小説の中では「大きなもの」という言葉で表現されています。「大きなもの」があるのは、海辺の小さな土地だけではありません。それは至るところにあり、人を包み込んでいるばかりでなく、人の心の中を自由に行き来できるのです。

思えば、母親から見放され、動くことも喋ることもできない兄と2人で暮らしていた頃にも「大きなもの」は確かにあったのです。尊のみならず、人に隠れるように暮らしていた兄に対してさえ、その「大きなもの」の恩恵は等しく降り注がれたのです。

兄に対する尊の心情は、複雑です。蔑み、他人に知られたくないという気持ち。ときに、尊は兄のことをいなくなればいいと思います。しかし一方では、慈しみ、何とか兄を救いたいと願う尊がいます。その心の揺らぎは、鷹野浦に来てからも消えることはありません。

※ この小説は、『九年前の祈り』に先立って芥川賞の候補になり、併せて野間文芸新人賞の候補にも挙がった作品です。

この本を読んでみてください係数 80/100


◆小野 正嗣
1970年大分県蒲江町(現佐伯市)生まれ。
東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科、パリ第8大学卒業。
現在、立教大学文学部文学科文芸思想専修准教授。

作品 「水に埋もれる墓」「森のはずれで」「にぎやかな湾に背負われた船」「線路と川と母のまじわるところ」「夜よりも大きい」「残された者たち」「九年前の祈り」他

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