『真鶴』(川上弘美)_書評という名の読書感想文
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『真鶴』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(ま行)
『真鶴』川上 弘美 文春文庫 2009年10月10日第一刷
12年前に夫の礼は失踪した、「真鶴」という言葉を日記に残して。京(けい)は、母親、一人娘の百(もも)と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ新しい恋人と逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往還するのだった。京についてくる目に見えない女は何を伝えようとしているのか。遥かな視線の物語。(「BOOK」データベースより)
真鶴は、神奈川県南西部(伊豆半島の根っこ)に位置する小さな町です。相模湾に突き出た真鶴半島があり、隣が湯河原、もう少し南に下ると熱海になります。地図上の形が鶴に似ていることから、町には鶴に因んだ美しい名前が付けられています。
母子の名前が「京」と「百」。行方不明の夫の名前も一文字で、「礼」。唯一、京の現在の恋人だけが、(凝ってはいるのですが)二文字で「青茲(せいじ)」という名前。何だか、これだけでも深い意味がありそうな気配です。
この小説のテーマは、人や物、「関係」するあらゆるものとの「距離」である。そう言っていいと思います。主人公である京という女性は、自分に関わるあらゆるものとの「遠近」を意識しながら、それらに対して如何に折り合いをつけていくかを考えます。
例えば、青茲との関係は「近いけど遠い」、礼とは「遠いけど近い」と感じています。一人娘の百は、思春期のさなか故「だんだん遠くなってくる」のです。「関係」は時間の経過とともに、近くなったり遠くなったりします。
・・・・・・・・・・
12年前、京の夫・礼は突然姿を消してしまいます。礼には別の女性がいるような気配があったのですが、それが原因かどうかは分りません。日記が残されますが、ほとんどは簡単なメモで、失踪した理由や行き先についての手がかりになるようなものはありません。
ただ、唯一京が気がかりに感じたのが「真鶴」という文字です。以後、京は何度も東京と真鶴を行き来することになるのですが、きっかけは決して原因を知りたいという気持ちからではありません。彼女はただ、導かれるようにして真鶴へ向かいます。
京が初めて真鶴を訪れたときの場面。
歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩きつづけた。
真鶴を訪れるたびに、京は〈ついてくるもの〉の存在を感じます。それは次第に明らかになり、やがてはっきりと女性であることが分かります。その女性が誰かは分からないのですが、京はその女性が礼と繋がっているのではないかと感じています。
最初はつかずはなれず、現れては消え、また不意に現れたりします。姿の濃淡も、始めは薄く男女の区別がつかなかったりしますが、徐々に濃いものへと変化します。やがて真鶴で、〈ついてくるもの〉の導きで、京は不思議な光景を見せられることになります。
・・・・・・・・・・
さて、この〈ついてくるもの〉とは一体何なのでしょう。この正体不明の「女性」は、礼のことを知っているのでしょうか。それとも、何も知らない、例えば真鶴の沖に広がる〈海のもの〉のような存在なのでしょうか。
いずれその正体は明かされることになりますが、それは言わずにおくとして、最初に書いた「関係」と「距離」のことをあと少しだけ。
夫の礼が失踪していなくなってからの京にとって、その「関係」において最も心を砕くのが一人娘の百です。京にとっては、青茲よりも、母親よりも百の気持ちが分かりません。近いと思っていたはずの百が、気付けば随分遠くへ行ってしまっています。
百が生まれたばかりの頃のことを、京はこんな風に思い返します。
乳を吸われながら、近い、と思った。この子となんと近くにあるのだろう。腹の中に宿していたときよりも、なお近いように思った。可愛いだのいとおしいだの、そんなものではなかった。ただ、近かった。
関係は、近くない。遠い、というほどではないが。関係があっても、なくても、かならず少しだけ、へだたっている。
どうですか? 世のお母さん方で、わが子に対してこんな理解の仕方をする方がどれだけおられることでしょう。自分の血を分けた子どもに対して、関係は近くないと言い、「からなず少しだけ、へだたっている」とダメ押しまでしています。絶対的にも思えるこの「距離感」の礎となっているものが何なのか - それを考えなければなりません。
※ この小説は、芸術選奨文部科学大臣賞の受賞作品です。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。高校の生物科教員などを経て作家デビュー。俳人でもある。
作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「センセイの鞄」「ざらざら」「風花」「天頂より少し下って」「パスタマシーンの幽霊」「どこから行っても遠い町」他多数
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