『中国行きのスロウ・ボート』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

『中国行きのスロウ・ボート』村上 春樹 文芸春秋 1983年5月20日初版

村上春樹の初めての短編集を読みました。若かった彼の、若々しい物語が7編収められています。

初めてこの本を手にした頃、私はまだ20歳の半ばでした。村上春樹は30歳の半ばに差しかかったくらい、今から30年ばかり前のことです。

もう何と言っても文体がいい。文章のリズムだけで読めてしまうし、知的で都会的な空気は出そうとしても出せない村上春樹だけの世界です。

少し突き放したような相手との距離感、ストイックに語りかける口調などが大きく作用して、独自の作品世界を創り上げているのです。

好みは色々で、「カンガルー日和」が良いという人がいれば、「午後の最後の芝生」が傑作だという人もいます。
「土の中の彼女の小さな犬」は村上春樹の文才が最も活かされた作品だという人がいたり、番外ですが安西水丸さんの表紙の絵が気に入ったという人までいます。

私の一番は、表題の「中国行きのスロウ・ボート」です。なぜかこれだけずっと忘れずにいました。

主人公の「僕」が若い頃に出会った中国人の話です。

中国人に初めて出会ったのは、小学生の頃。模擬試験を受けるために中国人小学校へ行ったとき、試験会場の教室に現れた足の悪い監督官。
自分がこの小学校の教師であると告げた後、落書きをしたりいたずらをしてはいけないと注意して、最後に「顔を上げて胸をはりなさい」「そして誇りを持ちなさい」と言います。

次は、東京での話。大学の2年生になった春、アルバイト先で知り合った無口な女子大生。
デートの最後に「僕」は勘違いして、彼女を帰る方向とは逆回りの山手線に乗せてしまいます。一周して戻ってきた彼女に謝るのですが、二人の間には微妙な空気が流れます。
「こんなのこれが最初じゃないし、きっと最後でもないんだもの」..「いいのよ。そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ」..「僕」は気持ちを上手く彼女に伝えられません。

3人目は結婚して6年目、28歳の頃。青山通りの喫茶店で声をかけられた高校生時代の知り合い、の知り合い。彼は、中国人専門に百科事典を売るセールスマンになっていました。
彼の家は裕福で、成績も「僕」より上で女の子にも人気のある男でした。
なぜ中国人相手に百科事典なんか売ってるのかと訊ねると、「とても長くて薄暗くて平凡な話なんだ。きっと聞かない方がいいよ」と彼は言います。

そして現在。「僕」はすでに30歳を越え、今またはるか遠い中国の大地を想い返しているのでした。

水平線にいつか姿を現すかもしれない中国行きのスロウ・ボート...というフレーズが印象的で、長い間記憶に残る短編になりました。

ありきたりな言い方になりますが、これは村上春樹の青春の追憶です。

「自分のいるべき場所はここではない」と思い惑う「僕」が、近くて遠い未知なる大国のイメージを借りて語る心の風景です。

この本を読んでみてください係数 95/100


◆村上 春樹

1949年京都府京都市伏見区生まれ。兵庫県西宮市、芦屋市で育つ。

早稲田大学第一文学部演劇科を7年かけて卒業。在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺に開店する。

作品 「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」「女のいない男たち」他多数

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