『おめでとう』(川上弘美)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/09
『おめでとう』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(あ行)
『おめでとう』川上 弘美 新潮文庫 2003年7月1日発行

いつか別れる私たちのこの一瞬をいとおしむ短篇集
最終話 「おめでとう」
西暦三千年一月一日のわたしたちへ
寒いです。ゆうべはずいぶん風が吹いたので、今朝も少し波が高い。風は、こわいです。風が吹くと、いろいろな音がくる。ボウボウボウボウ。ざんざんざん。ルルルル。ゆんゆん。いつもない音が、どこからかやってくる。いつもないものは、こわい。
寒いです。飯を炊いて干し魚を少し噛みました。飯を炊く匂いがすき。秋の夜、眠く眠くなったときの床の中みたいな匂いがします。
芋と粟が少なくなってきたし、米はほとんどもうないので、飯は薄い。今日は魚を獲ろうと思うので、飯はあんまり食べずにとっておきます。
魚は二匹獲れた。大きいのと小さいの。今日は晴れているので、遠くが見える。晴れている日は遠くが見えて、曇っている日は遠くは見えないけれど遠くの音が聞こえます。
トウキョウタワーが見える。トウキョウタワーまでは歩いて一日かかる。前に行ってみた。ここから見るときれいだけれど、近くに行くとぼろぼろでした。誰もいなくて、さびしい場所でした。このあたりには何人か住んでいるので、いい。
寒いです。こんにちは。あなたに会えました。あなたに会うのがすきです。あなたと喋るのがすきです。干し魚はおいしいね。きのう大きな入日を見ました。入日は、赤い。冬のはじめの葉よりも赤いです。
あなたと、少し抱き合いました。腕をあなたにまわして、あなたも腕をまわしてくれて、ぎゅっとすると、あたたかいです。魚は岩の上に置いて、しばらくぎゅっとしました。あなたは草の匂いがする。
誰かに会うのは三日ぶりです。四日かもしれません。七日かもしれない。日を数えたり、言葉を喋ったりするのをやめてはいけないと、あなたのおとうさんが言った。この島には昔はもっともっとたくさんの誰かが住んでいた。今は少ししかいない。
トウキョウタワーがきれいです。近くに行くとあんなにぼろぼろなのに。遠くのものはふしぎ。ふしぎでこわい。
魚をあなたにあげたいです。ナイフで開いて、海の塩をふります。二人で、食べました。飯も全部食べました。二人で食べると、一人で食べるよりも、いい。小さい魚は干します。動物や鳥がとってしまわないよう、注意して干します。
歌をうたいました。歌はあなたのおとうさんに教わった。歌の音はふしぎ。遠くからきたような音です。自分のなかに、遠くのものがあるのは、ふしぎ。歌を三つ歌いました。
少し寒いです。今日は新しい年なんだとあなたが言いました。新しい年は、ときどきくる。寒くなると、くる。
おめでとう、とあなたは言いました。おめでとう。まねして言いました。それからまた少しぎゅっとしました。
忘れないでいよう、とあなたが言いました。何を、と聞きました。今のことを。今までのことを。これからのことを。あなたは言いました。忘れないのはむずかしいけれど、忘れないようにしようとわたしも思いました。
さよなら。あなたが行ってしまったので、暗くなる前に畑を少し耕しました。入日が赤いです。火をおこします。飯を薄く炊いて、かめの水を飲みました。
この島にはもっとたくさんの誰かがいたんだと、あなたのおとうさんは教えてくれました。もっとたくさんの誰かは、どんな人たちだったんだろう。その人たちのことを忘れずに今もおぼえている人は、いるんだろうか。どこか遠くに、いるんだろうか。
寒いです。おめでとう。あなたがすきです。つぎに会えるのは、いつでしょうか。(全文)
小田原の小さな飲み屋で、あいしてる、と言うあたしを尻目に生蛸をむつむつと噛むタマヨさん。「このたびは、あんまり愛してて、困っちゃったわよ」 とこちらが困るような率直さで言うショウコさん。百五十年生きることにした、そのくらい生きてればさ、あなたといつも一緒にいられる機会もくるだろうし、と突然言うトキタさん・・・・・・・ぽっかり明かるく深々しみる、よるべない恋の十二景。(新潮文庫)
この本を読んでみてください係数 85/100

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。
お茶の水女子大学理学部卒業。
作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「水声」「どこから行っても遠い町」「大きな鳥にさらわれないよう」他多数
関連記事
-
-
『折れた竜骨(上)』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文
『折れた竜骨(上)』米澤 穂信 東京創元社 2013年7月12日初版 一人の老兵の死から、この
-
-
『田舎でロックンロール』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文
『田舎でロックンロール』奥田 英朗 角川書店 2014年10月30日初版 これは小説ではありませ
-
-
『異類婚姻譚』(本谷有希子)_書評という名の読書感想文
『異類婚姻譚』本谷 有希子 講談社 2016年1月20日初版 子供もなく職にも就かず、安楽な結
-
-
『ロック母』:「ゆうべの神様」と「ロック母」(角田光代)_書評という名の読書感想文
『ロック母』:「ゆうべの神様」と「ロック母」角田 光代 講談社文庫 2010年6月15日第一刷
-
-
『凍てつく太陽』(葉真中顕)_書評という名の読書感想文
『凍てつく太陽』葉真中 顕 幻冬舎 2019年1月31日第2版 昭和二十年 - 終
-
-
『円卓』(西加奈子)_書評という名の読書感想文
『円卓』西 加奈子 文春文庫 2013年10月10日第一刷 直木賞の『サラバ!』を読む前に、
-
-
『青い壺』(有吉佐和子)_書評という名の読書感想文
『青い壺』有吉 佐和子 文春文庫 2023年10月20日 第19刷 (新装版第1刷 2011年7月
-
-
『影裏』(沼田真佑)_書評という名の読書感想文
『影裏』沼田 真佑 文藝春秋 2017年7月30日第一刷 北緯39度。会社の出向で移り住んだ岩手の
-
-
『四月になれば彼女は』(川村元気)_書評という名の読書感想文
『四月になれば彼女は』川村 元気 文春文庫 2019年7月10日第1刷 4月、精神
-
-
『Aではない君と』(薬丸岳)_書評という名の読書感想文
『Aではない君と』薬丸 岳 講談社文庫 2017年7月14日第一刷 あの晩、あの電話に出ていたら。
















