『窓の魚』(西加奈子)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/14
『窓の魚』(西加奈子), 作家別(な行), 書評(ま行), 西加奈子
『窓の魚』西 加奈子 新潮文庫 2011年1月1日発行
温泉宿で一夜をすごす、2組の恋人たち。静かなナツ、優しいアキオ、可愛いハルナ、無関心なトウヤマ。裸の体で、秘密の心を抱える彼らはそれぞれに深刻な欠落を隠し合っていた。決して交わることなく、お互いを求め合う4人。そして翌朝、宿には一体の死体が残される--恋という得体の知れない感情を、これまでにないほど奥深く、冷静な筆致でとらえた、新たな恋愛小説の臨界点。(「BOOK」データベースより)
賑やかすぎるくらいの関西弁や、大らかさと純朴さを絵に描いたような天然キャラクターがすっかり鳴りを潜め、どちらかと言うとやや暗く、静かなトーンで物語は進行します。この小説は、西加奈子の新たな境地を示唆するような作品です。
舞台は、鄙びた一軒の温泉宿。この温泉宿の内風呂が、面白い造りになっています。風呂の大きな窓から庭園が見えるのですが、湯船がそのままガラス越しに庭園の池に面しており、湯船よりも、池の水面が高くなっています。それ故に、時々、池で泳ぐ錦鯉の影がゆらりと動くのが分かります。
赤や白や、黒や黄色。じっと見ていると、鯉と一緒に風呂に入っているみたいな、妙な気分になります。この池と色鮮やかな錦鯉。それともうひとつ、姿を見せない猫。それらは、この小説の重要なモチーフです。
・・・・・・・・・・
登場するのは〈ナツ〉と〈アキオ〉、〈ハルナ〉と〈トウヤマ〉の2組のカップル。それと、一人の女の死体です。まず、この謎の死体の話から始めることにします。
発見したのは宿の従業員で、死体は風呂に面した池に浮かんでいます。池にかかる橋の、水中に立っている柱に宿の浴衣がひっかかっており、その下に女の死体はありました。そのときの様子を、従業員はこんな風に語ります。
大きな錦鯉に囲まれて、白い肌さらして、池に浮かんでいる様っていうのが、一幅の絵のようでした。綺麗な人だったんでしょうよ、年がいくつか分からない、不思議な感じの顔つきでしたよ。
こう、裾がひらひらと揺れてね、池の緑が反射して、周りを赤や黄色や白の、大きな鯉に囲まれてね。生きていたときより、数倍、綺麗に見えたんじゃないですかね。死んじまってるっていうのに、顔はどこかうっすら桃色をしてたね、ふわと広がった様子が、ああそう、まるで、牡丹の花のようでした。
そして、その日、聞き慣れない猫の鳴き声を聞いたと言います。しかし、どこを探しても猫の姿は分らない。その癖、声だけははっきりと聞こえる。庭の給水塔の辺りにも、納屋にも、露天の方にも猫は見当たらない。それだけが唯一変わったことだと言います。
・・・・・・・・・・
(物語の途中で暗示されもするのですが)死んだ女の正体は、最後まで明かされることなく曖昧なままです。宿泊客なのですが、宿帳に書かれていた住所も名前もでたらめで、外傷はなく、何か毒物が胃の中から検出されたということ以外、何も分りません。
さらに分からないのは、この小説における女の存在そのものです。
小説は、ナツ、トウヤマ、ハルナ、アキオの4つの章で区切られ、それぞれが一人称で自分を語るというスタイルで進行します。そして、その章と章の合間で、4人とは関わりのない、もうひとつの物語が挿入されています。
池で死んだ女を起点として、たまたま泊り合わせた別の客、死体を発見した旅館の従業員、旅館の女将などの「部外者」が、ここでも一人称の語りを始めます。
・・・・・・・・・・
主役たるべき4人の若者は、ありていに言えば皆現代風の、どこにでもいるような人物です。4人それぞれが分かり易いように多少デフォルメされていますが、特段おかしな人間ではありません。
一見今どきのお気軽なカップルに見える4人ですが、実は互いのことを心から愛しているとは到底言えない関係です。ハルナとトウヤマは、すでに両方が相手のことを好きではないことを承知していますし、アキオのナツに対する想いはことさら歪です。
そもそも彼らは、自分が最も忌み嫌う自分自身の内実をひた隠しにしたままで人を愛し、人に愛されたいと願っています。そして、そうである自分のことも十分理解しているのですが、打ち砕く手立てがなく、今はまだ仮面を被ったままの姿です。
温泉宿の池で錦鯉に塗れて死んでいた女は、4人の若者とどんな関係なのか。果たして、関係があるのか、ないのか。正直なところ、よくは分りません。但し、謎の女の存在がこの小説に得難い余韻を与えていることは、誰もが認めるはずだと思います。
※ 余談ですが、小説に登場する温泉宿は、おそらく修善寺温泉の新井旅館がモデルになっていると思います。知ってる人は知っている、風呂から鯉が見える、かなり有名な旅館です。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆西 加奈子
1977年イラン、テヘラン生まれ。エジプト、大阪府堺市育ち。
関西大学法学部卒業。
作品 「あおい」「さくら」「きいろいゾウ」「通天閣」「円卓」「漁港の肉子ちゃん」「きりこについて」「ふくわらい」「サラバ!」他
◇ブログランキング
関連記事
-
『ふる』(西加奈子)_書評という名の読書感想文
『ふる』西 加奈子 河出文庫 2015年11月20日初版 繰り返し花しすの前に現れる、何人も
-
『末裔』(絲山秋子)_書評という名の読書感想文
『末裔』絲山 秋子 河出文庫 2023年9月20日 初版発行 家を閉め出された孤独な中年男の
-
『元職員』(吉田修一)_書評という名の読書感想文
『元職員』吉田 修一 講談社 2008年11月1日初版 吉田修一の本の中では、どちらかと言え
-
『永い言い訳』(西川美和)_書評という名の読書感想文
『永い言い訳』西川 美和 文芸春秋 2015年2月25日第一刷 長年連れ添った妻・夏子を突然の
-
『十九歳の地図』(中上健次)_書評という名の読書感想文
『十九歳の地図』中上 健次 河出文庫 2020年1月30日新装新版2刷 「俺は何者
-
『みんな邪魔』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文
『みんな邪魔』真梨 幸子 幻冬舎文庫 2011年12月10日初版 少女漫画『青い瞳のジャンヌ』
-
『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』(椰月美智子)_書評という名の読書感想文
『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』椰月 美智子 双葉文庫 2023年4月15日第1刷発行
-
『メタモルフォシス』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文
『メタモルフォシス』羽田 圭介 新潮文庫 2015年11月1日発行 その男には2つの顔があった
-
『また、桜の国で』(須賀しのぶ)_これが現役高校生が選んだ直木賞だ!
『また、桜の国で』須賀 しのぶ 祥伝社文庫 2019年12月20日初版 1938年
-
『遮光』(中村文則)_書評という名の読書感想文
『遮光』中村 文則 新潮文庫 2011年1月1日発行 私は瓶に意識を向けた。近頃指がまた少し変