『杳子・妻隠』(古井由吉)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/14
『杳子・妻隠』(古井由吉), 作家別(は行), 古井由吉, 書評(や行)
『杳子・妻隠』古井 由吉 新潮文庫 1979年12月25日発行
古井由吉という名前は、昔から知っています。書棚を探せば、たぶんこの小説の他にも何冊かの単行本があるはずです。でも、すっかり忘れていました。
何せ、古井由吉が『杳子』という小説で芥川賞を受賞したのは昭和45年、1970年の下半期のことです。当時の選者の中には川端康成を始め、石川達三、大岡昇平、井上靖、石川淳といった最早伝説上の人物になりつつあるような作家が名を連ねています。
新潮文庫が出した『ピース又吉が愛してやまない20冊』の中には、そんな「昔」の本がたくさん含まれています。もちろん、彼が敬愛する太宰治の本も2冊ばかりしっかり入っています。そんな中、タイトルの響きの懐かしさについ手に取ったのがこの本でした。
『杳子』に限ったことではありませんが、古井由吉の小説は万人受けするようなものではありません。文章は知的で端正、申し分ないのですが、その分「娯楽気分」は削がれます。読む側も襟を正さなくてはなりません。そこは芥川賞作品、一筋縄ではいかないのです。
適確な形容を駆使し、巧みな筆致で語られるのは、あくまで登場人物の心の内です。例えば、山間の谷底で初めて「彼」が杳子の姿を見つける場面の描写。
杳子は深い谷底に一人で坐っています。
疲れた軀を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。
地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。それほどまでに、杳子の軀には精気が乏しかったのだろうか。
「彼」と杳子は同じ大学生で、山での出逢いをきっかけに交際が始まります。『杳子』という小説は恋愛小説であって恋愛小説でない、特異な「男女の恋の物語」です。後々2人は身体の関係を結ぶことにもなりますが、絆が強まるかと言えばそんな風でもありません。
ここが重要なところですが、杳子という女性は、一般的な目線で見ると明らかに精神を病んでいます。少女のように固く閉じこもるかと思えば、突然成熟した女の素顔を顕したりします。
しかし、それが果たして病んでいるという状態なのかどうか、やや特殊に映りはするものの、杳子が世界と折り合いをつけるために一時迷っているだけのことではないかと思うが故に「彼」は杳子に惹かれ、杳子の中に「彼」自身を見出します。
杳子ほどではないにせよ「彼」もまた心に闇を抱える青年で、だからこそ、「彼」は杳子を見過ごすことができません。近づいたかと思えば、するりと体をかわされる。機嫌が良いとは思えないのに、明日も電話をくれとせがまれる。互いを必要としていることは痛いほどわかるのに、「彼」にとって、杳子はどこまでも捉えどころがありません。
※タイトルは『杳子・妻隠』とひと続きになっていますが、「杳子」と「妻隠」は2つの短編、別々の物語です。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆古井 由吉
1937年東京生まれ。
東京大学文学部独文科卒業。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。
作品 「栖」「槿」「中山坂」「仮往生伝試文」「白髪の唄」他多数
◇ブログランキング
関連記事
-
『それまでの明日』(原尞尞)_書評という名の読書感想文
『それまでの明日』原 尞 早川書房 2018年3月15日発行 11月初旬のある日、渡辺探偵事務所の
-
『国道沿いのファミレス』(畑野智美)_書評という名の読書感想文
『国道沿いのファミレス』畑野 智美 集英社文庫 2013年5月25日第一刷 佐藤善幸、外食チェーン
-
『妖怪アパートの幽雅な日常 ① 』(香月日輪)_書評という名の読書感想文
『妖怪アパートの幽雅な日常 ① 』香月 日輪 講談社文庫 2008年10月15日第一刷 共同浴場は
-
『夜が暗いとはかぎらない』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文
『夜が暗いとはかぎらない』寺地 はるな ポプラ文庫 2021年6月5日第1刷 人助
-
『暗幕のゲルニカ』(原田マハ)_書評という名の読書感想文
『暗幕のゲルニカ』原田 マハ 新潮文庫 2018年7月1日発行 反戦のシンボルにして20世紀を代表
-
『もう、聞こえない』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文
『もう、聞こえない』誉田 哲也 幻冬舎文庫 2023年10月5日 初版発行
-
『本心』(平野啓一郎)_書評という名の読書感想文
『本心』平野 啓一郎 文春文庫 2023年12月10日 第1刷 『マチネの終わりに』 『ある
-
『夢に抱かれて見る闇は』(岡部えつ)_書評という名の読書感想文
『夢に抱かれて見る闇は』岡部 えつ 角川ホラー文庫 2018年5月25日初版 男を初めて部屋に上げ
-
『未必のマクベス』(早瀬耕)_書評という名の読書感想文
『未必のマクベス』早瀬 耕 ハヤカワ文庫 2017年7月25日発行 IT企業Jプロトコルの中井優一
-
『背中の蜘蛛』(誉田哲也)_第162回 直木賞候補作
『背中の蜘蛛』誉田 哲也 双葉社 2019年10月20日第1刷 池袋署刑事課の課長