『爪と目』(藤野可織)_書評という名の読書感想文

『爪と目』藤野 可織 新潮文庫 2016年1月1日発行


爪と目 (新潮文庫)

 

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

小説の始まりにあるこの文章、何気に読むと、読み終わって「おや? 」となって、もう一度読み返してみて・・・、「どういうこと? 」となりはしないでしょうか。

何度か読み直して、私はようやくのこと気が付きました。紛らわしいのは、語り出すのが当事者自身ではなく、別の誰かであるということ。「あなた」と「父」を同時に見ている、もう一人の人物によって語られているということです。

あるとき、母が死んだ。そして父は、あなたに再婚を申し出た。あなたはコンタクトレンズで目に傷をつくり訪れた眼科で父と出会ったのだ。わたしはあなたの目をこじあけて - 三歳児の「わたし」が、父、喪った母、父の再婚相手をとりまく不穏な関係を語る。母はなぜ死に、継母はどういった運命を辿るのか・・・。独自の視点へのアプローチで、読み手を戦慄させるホラー。芥川賞受賞作。(新潮文庫解説より)

つまり、(解説にあるように、それこそが独自の視点へのアプローチなのですが)この小説の語り手である「わたし」とは、「父」の娘(名前は陽奈)であり、幼稚園に通う3歳の女の子なのです。

そんな幼い子供が何を語るのかとお思いでしょうが、まずは読んでみてください。読むうちに違和感は消え、次第に彼女の醒めた眼差しや心の在り様に怖気を震うはずです。

彼女は実に冷静です。死んだ母に躾けられたまま無理を言うこともなく、大人がこうあるべきだと思うように振る舞います。気配を察知し、裏切りません。ただ、母がいなくなったあと彼女が始めたことがあります。彼女は、爪を噛むようになります。
・・・・・・・・・・
【わたしの母の、不可解な死】
母の遺体は、夕方になってわたしに起こされた父がなんとはなしにベランダの窓を開けるまで、固くつめたく強ばって横たわり続けていました。

鍵は、父が開けました。わたしの証言は、要領を得ません。お母さんが外にいるときに鍵を閉めたかと聞かれても、閉められるし開けられるよ、と返事するばかり。覚えているのは母の笑顔で、母もわたしも笑っていたので、間にある窓ガラスが白く口元で曇ります。

それが可笑しくてまた笑うと一層曇ってお互いが隠れるので、できるだけ笑いをこらえなくてはなりません。わたしは爪先立ち、顎を思い切り反らせて母を見上げていました。

【あなたと父の馴れ初め】
2人は眼科で知り合います。あなたはコンタクトレンズのせいで眼球に傷を作り、父は結膜炎にかかっていました。ひどく待たされたあと、あなたが先に呼ばれ、すぐに父も呼ばれます。

父が検査室に入ると、あなたは視力検査用の眼鏡をかけています。看護師がフレームにレンズを入れると、あなたはその手の下から横目で父を見ました。そして、微笑んだのです。それで、父も自分があなたを見て微笑んでいたことに気付きます。

翌週に一度、そして三度目の診察時、今度は下りのエレベーターに2人は乗り合わせます。あなたが目だけを上げて父を見てはじめて、父はあなたがあの眼鏡の子だと気付きます。(治療の間、あなたは眼鏡をかけていました)これが、そもそものきっかけです。
・・・・・・・・・・
まず、わたしは母の死によって明らかに心に傷を負っています。警察の事情聴取が終わり興奮が去ると、わたしはベランダには絶対に近づかなくなります。目に入れるのも拒んだため、ベランダに面した部屋の先にある子供部屋には行けなくなります。

無理に引っ張ると大声で泣くのですが、泣きわめくのではなく、目を見開いたまま大量の涙を流し、「あー」とも「おー」ともつかぬ声を、息の続く限り放つようになります。そして、爪を噛むようになります。(母は事故死として処理されますが、本当の死因は不明です)

一方の、あなたと父の馴れ初め。(その後一緒に暮らすようになってからもそうなのですが)あなたと父との意識の間には空怖ろしいくらいの落差があり、その原因の一つが「目」です。性行為のさ中、あなたの視力が裸眼では0.1もないことを父は初めて知ります。

極端に視力が悪いあなたは、裸眼でははっきり父の顔など見えはしないのです。「顔がよくわからない」父にあなたは微笑んで、そんなあなたに父は恋をしたのです。怖ろしいのはそのことではなく、そんな父をあなたがいとも簡単に受け入れたことです。

気の向くままに父と不倫を重ね、やがて母の死をきっかけに家に転がり込んできたあなたに、わたしはずっと語りかけているのですが、その声はあなたに届きません。そもそも、あなたは人の話を聞く気がないし、見たいものしか見ようとしません。

だから何も恐れない。それに苛立つように、わたしは爪を噛みます。あなたが言う通りに黙々とスナック菓子を食べ、丸々と太っていきます。わたしが思うに、見たくないものは「見ないように」している - そんなあなたと父はとてもよく似ています。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


爪と目 (新潮文庫)

 

◆藤野 可織
1980年京都府京都市生まれ。
同志社大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了。

作品 「いやしい鳥」「パトロネ」「おはなしして子ちゃん」「ファイナルガール」など

関連記事

『たそがれどきに見つけたもの』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『たそがれどきに見つけたもの』朝倉 かすみ 講談社文庫 2019年10月16日第1刷 たそが

記事を読む

『桃源』(黒川博行)_「な、勤ちゃん、刑事稼業は上司より相棒や」

『桃源』黒川 博行 集英社 2019年11月30日第1刷 桃源 沖縄の互助組織、模合

記事を読む

『誘拐』(本田靖春)_書評という名の読書感想文

『誘拐』本田 靖春 ちくま文庫 2005年10月10日第一刷 誘拐 (ちくま文庫) 東京オリ

記事を読む

『舎人の部屋』(花村萬月)_書評という名の読書感想文

『舎人の部屋』花村 萬月 双葉文庫 2018年1月14日第一刷 舎人の部屋 (双葉文庫) 過

記事を読む

『哀原』(古井由吉)_書評という名の読書感想文

『哀原』古井 由吉 文芸春秋 1977年11月25日第一刷 哀原 (1977年) 原っぱ

記事を読む

『魂萌え! 』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『魂萌え! 』桐野 夏生 毎日新聞社 2005年4月25日発行 魂萌え ! 夫婦ふたりで平穏

記事を読む

『イモータル』(萩耿介)_書評という名の読書感想文

『イモータル』萩 耿介 中公文庫 2014年11月25日初版 イモータル (中公文庫) イン

記事を読む

『東京零年』(赤川次郎)_書評という名の読書感想文

『東京零年』赤川 次郎 集英社文庫 2018年10月25日第一刷 東京零年 (集英社文庫)

記事を読む

『月の砂漠をさばさばと』(北村薫)_書評という名の読書感想文

『月の砂漠をさばさばと』北村 薫 新潮文庫 2002年7月1日発行 月の砂漠をさばさばと (新潮文

記事を読む

『てとろどときしん』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『てとろどときしん』黒川博行 角川文庫 2014年9月25日初版 てとろどときしん 大阪府警・

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『おもかげ』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『おもかげ』浅田 次郎 講談社文庫 2021年2月17日第4刷発行

『ぼくがきみを殺すまで』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『ぼくがきみを殺すまで』あさの あつこ 朝日文庫 2021年3月30

『52ヘルツのクジラたち』(町田そのこ)_書評という名の読書感想文

『52ヘルツのクジラたち』町田 そのこ 中央公論新社 2021年4月

『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(町田そのこ)_書評という名の読書感想文

『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』町田 そのこ 新潮文庫 2021年

『リバース&リバース』(奥田亜希子)_書評という名の読書感想文

『リバース&リバース』奥田 亜希子 新潮文庫 2021年4月1日発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑