『岬』(中上健次)_書評という名の読書感想文
『岬』中上 健次 文春文庫 1978年12月25日第一刷
昭和21年(1946年)8月2日、和歌山県新宮市春日(春日は健次が言うところの路地、被差別地区である)で生まれた中上健次は、戦後生まれの作家として初めて芥川賞を受賞した人物です。
その授賞式でのこと - 会場には日に焼けた顔の、ひと目で肉体労働者(「土方」と呼ばれる人々)と分かる親族の男性やら、(いかにもこの日のために誂えましたと言わんばかりの)艶やかな訪問着姿の女性やらが大勢訪れたといいます。
女性らは母親や姉、そして叔母たち。男性らはステージの段差に腰かけて、大声で新宮弁で話しては酒を飲み、食い物をかきこみます。それを見たどこかの物書きが健次のことを「土方作家」と呼び、また別の物書きが『岬』をして「土方小説」と評したそうです。
この作家自身の郷里・紀州を舞台に、のがれがたい血のしがらみに閉じ込められた青年の、癒せぬ渇望、愛と憎しみを、鮮烈な文体でえがいた芥川賞受賞作品。この小説は、著者独自の哀切な旋律を始めて文学として定着させた記念碑的作品とされ、広く感動を呼んだ。表題作の他、「火宅」「浄徳寺ツアー」など初期の力作三篇を収める。(文春文庫より)
この物語の主人公・竹原秋幸(24歳)は、土方衆を束ねる請負師を稼業とする義父を持ち、また同業の伯父(種違いの姉・美恵の夫)を持っています。最初は義父の組、わけあって現在は伯父の組で働いています。
- 女郎の子は娼婦になる。土方の家で育つと土方だ。それが一番てっとり早い - そう思う秋幸ですが、土方仕事は存外彼の性格に合っています。一日、土をほじくり、すくいあげる。ミキサーを使って砂とバラスとセメントと水を入れ、コンクリをこねる。
ミキサーを運べない現場では、鉄板にそれらをのせスコップでこねる。体を一日動かし、地面に座り込んで煙草を吸い、飯を食う。何も考えない。そして、また働く。かけた力の分だけ土がめくれあがる。何もかもが正直で、土には人間の心のように綾というものがない。だから、秋幸は土方が好きだったのです。
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読むとおそらく何層にも折り重なった血縁の業に胸が痞えて苦しくなるだろうと思います。見知らぬ他人と出くわす方が珍しいほどの狭い世間にあって、「血の濃さ」や「人の匂いの濃さ」に息が詰まって手が負えなくなるかも知れません。
そのときその状況にもしも自分がいたとしたら、言い知れぬ絶望と無力感にうちのめされて、ただ蹲っている他ないように思えます。
秋幸のいる離れの四畳半には壁に一枚女優のグラビアが貼ってあるだけで、他に何もありません。寝て、起きる。それだけ。女のことさえ、考えたくないのです。やっかいな物一切をそぎ落としてしまいたいと思っています。
ただ淡々と仕事をこなすだけの毎日を善しとする - 秋幸は元来酒が飲めない性分で、女遊びやバクチもしません。まるでそこにはそぐわない彼の様子は頑なにも映り、今ある状況を忌むがための方便、秋幸にあるわずかばかりの矜持にも思えます。
母親の前夫の法要を今いる亭主の前でするべきかどうかで揉めるうち、話は身内の兄妹内での殺人事件へと連なり、昔母親と秋幸を刺し殺そうとして果たせず、ある日唐突に家の庭の木に首をつって死んでしまった兄の思い出へと繋がって行きます。
秋幸が12歳、兄が24歳のときのことです。兄は、何度も、何度も、包丁を持ってやってきたのです。母親に向かって、姉の芳子や美恵、おれら兄妹だけ放ったらかして、秋幸だけ連れてこの男(母親の三番目の男)と逃げようとしたではないかと迫ったのです。
あんなに繰り返し繰り返し刃物や鉄斧を持って殺しにきたのに、兄はあまりにあっけなく、ぷっつりと死んでしまいます。姉は物も言わずに母親に抱きつき、秋幸はただ二人を見ています。この時彼は、姉が自分のことのように泣くのが不思議でならないのでした。
秋幸が心を開き、唯一守るべき存在としてある姉・美恵は、この小説のもう一人の主人公だとも言えます。生来体が弱く、おじけ虫でやさしく、昔肋膜を病んであばらを削った分背中がくぼんでいます。腹違いとはいえ姉は義弟を思い、義弟もまた姉を慕っています。
あれからちょうど12年が経ち、秋幸は24歳になり、兄が死んだ年に生まれた美恵の男の子は12歳になっています。そんな折、今度は美恵が発狂し、次に秋幸が娼婦になった(また別の)腹違いの妹を買春することになります。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆中上 健次
1946年和歌山県新宮市生まれ。92年、46歳で没。
和歌山県立新宮高等学校卒業。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中上菜穂。
作品 「枯木灘」「鳳仙花」「地の果て至上の時」「紀伊物語」「十九歳の地図」「十九歳のジェイコブ」「十八歳、海へ」「千年の愉楽」他多数
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