『悪い恋人』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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『悪い恋人』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(わ行)
『悪い恋人』井上 荒野 朝日文庫 2018年7月30日第一刷
恋人に 「わたしをさがさないで」 とわざわざ書き置きを残して失踪するとき、そのひとの心には 「あなたの言いなりにはもうならない」 という意思と、「あなたに構ってもらえないのはもっといや」 というさらなる深層心理が二重写しになっているのではないか。文面からはそのふたつともが染み出しているはずだ。
そのとき失踪者自身に、「あなたの本当の気持ちはどちらなのか」 と問うても、おそらく意味はない。自分では知覚しきれない無意識の領域で、逃げたいと逃げたくないの願望は複雑にからまりあい、言葉は二重の意味を帯びてしまっているのだから。
解説にある江南亜美子氏の言葉は、けだし至言である。
この小説の主人公、沙知もまた同様で、事に及んだときの自分の心境を正しく理解していたとは言い難い。いかに憧れの存在だったとはいえ、薄情に過ぎ、明らかに “それだけ” が目的の勲に対し、なぜそこまで固執したのか。何が彼女を駆り立てたのか。
彼女は、夫にも、義父母との同居にも、なんの不満もなかった。なのに、勲と肉体関係を持ったいま、どこか、家族の誰もが “異様” に見えるのはどうしてなんだろう。
あの男に 開発されて いく。 もう以前の 私には 戻れないのか。 満たされていたはずの生活が、異なる顔となって現れる。
会いたい。会うとセックスだけなのに、互いの心を覗けば、相手を思う気持ちの欠片もないのがわかるのに - それでもあの男に会いたいと思う、自分の気持ちがわからない。
自分がいまなにを欲しているのか、正確に把握できると考えることは、欲望というものの本質を甘くみている。欲望を手なずけるのはむずかしい。「わたし」 を突き動かすのは、むしろ意識にはのぼらない何ものかの仕業だと、(後略/解説の続き)
そして、その結果。その顛末。
昼ドラのような甘やかな不倫。そんなものは存在しないのだ。
白いスーツをまとった美貌の開発業者は、中学時代の同級生だった。沙知は、自宅裏の森を伐採するために現れた彼と再会したその日から、不可抗力のように肉体関係を持ってしまう。だが、そのことを機に、彼女の日常、そして家族たちもくるいはじめるのだった。宅地造成工事の反対にのめり込む義父母。そして、夫や息子もまた見知らぬ顔を覗かせるようになる。いつしか男は沙知への要求をエスカレートさせていくのだった。(アマゾン内容紹介より)
※この作品は、何気ない日常に潜む正常と異常の狭間に現れるただならぬ光景をとらえたアモラルな長編小説です。アモラルとは、罪の意識を持ちながら罪を犯す 「非道徳・不道徳」 をさす 「イモラル」 に対し、罪を悪いこととして捉えない 「無道徳」 をいいます。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「虫娘」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数
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