『天頂より少し下って』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『天頂より少し下って』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(た行)

『天頂より少し下って』川上 弘美 小学館文庫 2014年7月13日初版

『天頂より少し下って』には、7つの短編が収められています。文庫本の解説には〈奇妙な味とユーモア、そしてやわらかな幸福感〉とありますが、中でも特に〈やわらかな幸福感〉に今すぐ浸りたい方におススメの一冊です。掛け値なしの名作ぞろいです。

私が好きな短編「金と銀」は、はとこ同士の恋の物語です。あまりに近すぎて、男女の隔てさえ感じなかった2人が、やがて幼い頃からすでに心のどこかで互いに惹かれ合っていたことに気付きます。その駆け引きのない朴訥な愛に、心が洗われるようです。
・・・・・・・・・・
暎子が5歳、治樹が16歳の時に2人は初めて出会います。暎子の母方のひいおばあちゃんが亡くなったときのことです。暎子にとってこのときの治樹は、たまたま斎場に居合わせた男性の一人に過ぎません。彼女はまだ、「はとこ」という言葉すら知りません。

2年後にまた葬儀で出会い、その後治樹は、暎子の母が教えている陶芸教室の旅行に参加するようになっています。瀬戸内の小さな島で2人は盆踊りを眺め、ゴムボートに乗って沖へ出ます。このとき暎子は小学6年生、治樹は大学生になっています。

治樹は邪気のない分、人にみくびられやすい人間です。暎子の姉・凛子には陰で〈ハル〉と呼びすてにされ、感極まるとすぐに泣いてしまいます。格式ばったレストランは苦手だと言い、小学生の暎子に向かって「どんな店が好き?」と普通に訊ねたりします。

7年後偶然出会った2人は、その後間を空けながらも定期的に会うようになります。暎子が失恋したと聞くと、治樹は彼女を千葉の海へ連れ出します。就職試験に落ちたときは横浜の中華街へ行き、箱根には4泊します。が、もちろん部屋は別々です。
・・・・・・
時を経て、治樹はすでに30歳の半ばで、暎子も社会人になっています。結婚して子供もできた治樹ですが、数年前に離婚して今は独り身です。治樹は画家を目指していました。しかし、ようやく絵が売れ始め、講師の仕事も決まった途端全てを投げ出してしまいます。

治樹はスランプで、自分の画業に悩んでいることを暎子は知っていました。知っていながら、暎子は少し怒ります。自分の好きなことができて、その上にお金がもらえるのは贅沢なことだと言います。治樹は素直に謝り、謝られたことにまた腹を立てる暎子です。
・・・・・・・・・・
解説の平松洋子さんは、川上弘美が恋愛を描くときの「節度」にたまらなく惹かれる、と書いています。そして、彼女が考える「節度」とは、届きそうで、届かないもの。掴めそうなのに、掴めないもの。そういった不可視の領域に対して知っているふりや、分かったふりをしないことだと解説してくれています。

これは、みごとに的を得た解説だと思います。その「節度」が、この短編集では至るところで発現しています。それこそが、おそらく〈やわらかな幸福感〉の源泉なのだと思います。過剰にならず、さらりと書き流しているかにみえる文章にこそ、川上弘美にとっての真実があふれ出ているのです。
・・・・・・・・・・
暎子は治樹のくちびるに、そっと自分のくちびるをつけてみます。2人の初めてのキスは、おそよキスらしくないキスで、暎子からすれば「おみまい」であり、治樹は「生意気だな、このひとは」と小さく言うしかないものでした。

治樹は、暎子が好きだからこわくなる、と言います。暎子がどこかに行ったり、死んだりするのがこわいと言います。

暎子も、治樹のことがずっと好きだった自分に初めて気がつきます。本当は知っていたような気もするけれど、やっぱりきちんとは知らなかったのだと思います。治樹のことが気になり出すと、暎子もまた、人を好きになるのはこわいものだと思うのでした。

※「金と銀」以外の6つの短編を紹介しておきます。私の好みの順番に並べてみました。
「天頂より下って」「ユモレスク」「エイコちゃんのしっぽ」「一実ちゃんのこと」「夜のドライブ」「壁を登る」・・・ ぜひ、ひとつでも読んでみてください。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。高校の生物科教員などを経て作家デビュー。俳人でもある。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「センセイの鞄」「真鶴」「風花」「これでよろしくて?」「パスタマシーンの幽霊」「どこから行っても遠い町」他多数

◇ブログランキング

いつも応援クリックありがとうございます。
おかげさまでランキング上位が近づいてきました!嬉しい限りです!
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

関連記事

『ニュータウンは黄昏れて』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『ニュータウンは黄昏れて』垣谷 美雨 新潮文庫 2015年7月1日発行 バブル崩壊前夜に買ってしま

記事を読む

『ちょっと今から人生かえてくる』(北川恵海)_書評という名の読書感想文

『ちょっと今から人生かえてくる』北川 恵海 メディアワークス文庫 2019年7月25日初版

記事を読む

『忌中』(車谷長吉)_書評という名の読書感想文

『忌中』車谷 長吉 文芸春秋 2003年11月15日第一刷 5月17日、妻の父が86歳で息を

記事を読む

『たった、それだけ』(宮下奈都)_書評という名の読書感想文

『たった、それだけ』宮下 奈都 双葉文庫 2017年1月15日第一刷 「逃げ切って」。贈賄の罪が発

記事を読む

『水声』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『水声』川上 弘美 文春文庫 2017年7月10日第一刷 1996年、わたしと弟の陵はこの家に二人

記事を読む

『デルタの悲劇/追悼・浦賀和宏』(浦賀和宏)_書評という名の読書感想文

『デルタの悲劇/追悼・浦賀和宏』浦賀 和宏 角川文庫 2020年7月5日再版 ひと

記事を読む

『よるのふくらみ』(窪美澄)_書評という名の読書感想文

『よるのふくらみ』窪 美澄 新潮文庫 2016年10月1日発行 以下はすべてが解説からの抜粋です

記事を読む

『熱源』(川越宗一)_書評という名の読書感想文

『熱源』川越 宗一 文藝春秋 2020年1月25日第5刷 樺太 (サハリン) で生

記事を読む

『破蕾』(雲居るい)_書評という名の読書感想文

『破蕾』雲居 るい 講談社文庫 2021年11月16日第1刷 あの 冲方 丁が名前

記事を読む

『鎮魂』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『鎮魂』染井 為人 双葉文庫 2024年5月18日 初版第1刷発行 半グレ連続殺人

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『ジウⅡ 警視庁特殊急襲部隊 SAT 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ジウⅡ 警視庁特殊急襲部隊 SAT 』誉田 哲也 中公文庫 202

『ジウⅠ 警視庁特殊犯捜査係 SIT 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ジウⅠ 警視庁特殊犯捜査係 SIT 』誉田 哲也 中公文庫 202

『血腐れ』(矢樹純)_書評という名の読書感想文

『血腐れ』矢樹 純 新潮文庫 2024年11月1日 発行 戦慄

『チェレンコフの眠り』(一條次郎)_書評という名の読書感想文

『チェレンコフの眠り』一條 次郎 新潮文庫 2024年11月1日 発

『ハング 〈ジウ〉サーガ5 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ハング 〈ジウ〉サーガ5 』誉田 哲也 中公文庫 2024年10月

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑