『逃亡者』(中村文則)_山峰健次という男。その存在の意味
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最終更新日:2024/01/08
『逃亡者』(中村文則), 中村文則, 作家別(な行), 書評(た行)
『逃亡者』中村 文則 幻冬舎 2020年4月15日第1刷

「一週間後、君が生きている確率は4%だ」
突如始まった逃亡の日々。
男は、潜伏キリシタンの末裔に育てられた。「君が最もなりたくない人間に、なってもらう」
第二次大戦下、”熱狂” “悪魔の楽器” と呼ばれ、ある作戦を不穏な成功に導いたとされる美しきトランペット。あらゆる理不尽が交錯する中、それを隠し持ち逃亡する男にはしかし、ある女性と交わした一つの 「約束」 があった - 。キリシタン迫害から第二次世界大戦、そして現代を貫く大いなる 「意志」。中村文則の到達点。信仰、戦争、愛 - 。この小説には、その全てが書かれている。(幻冬舎)
物語は、まずトランペットを取材しに来た男が、アイン氏と出会うところから始まる。二人は惹かれ合い、男が非常勤でクラスを持っていた大学で再会し、やがて結ばれる。
男はアイン氏から、作家志望であることと、小説の構想を打ち明けられる。存在とは、例外なく、歴史に繋がるものであると。その歴史は血縁に限らないと。アイン氏が小さかった頃、教会で見た幻覚/夢が元になっていた。男はプロポーズするが、アイン氏は死んでしまう。
男はアイン氏の小説を完成させようとし、自分の歴史を語り始める。潜伏キリシタンから長崎の原爆まである歴史。アイン氏の遺品から、二人が出会うきっかけになったトランペットの所有者、“鈴木” 氏の手記が見つかる。男は “鈴木” の元恋人のもとへ行き、彼が伝えられなかった言葉を伝える。(以下略/本文より)
それとは別に。(以下はP186 ~ 188/〈空気3〉 より)
恵美は泣いた。私があなたと別れたのがいけなかったと意味のわからないことを言った。僕は恵美をぼんやり見たが、自分は君に全く興味がないとは言わなかった。そんなに結婚したければその辺の男に足を開けばいいとも言わなかった。君はいつも自分本位で自分の分析がいつも正しいと思っていて正直うっとうしい人間だとも言わなかった。男の批判ばかり書く癖にお前はいつも男が喜びそうな服ばかり着ているとも言わなかった。胸の開いた服を着て屈むたびにいちいちそれを隠す姿がうっとうしくて仕方なかったとも言わなかった。顔も見たくないが一番はその声を聞きたくないとも言わなかったが、帰ってくれと言った。
恵美は僕を真っ直ぐ見たが、あなたは他人と自分の間に壁を置き過ぎるとは言わなかった。
あなたは自分が正しいと思っているけど他人からすればそうではないとも言わなかった。みんなが社会問題に目を向けているわけではないしみんなも忙しいし社会のことに目を向けるより自分の生活で精一杯の人もいるとも言わなかった。それに世の中には絶対に社会問題について考えたくないと思う人間が一定数いることくらい知っておけこの馬鹿がとも言わなかった。というかあなたも全ての問題に通じているわけではないのだから偉そうなことを言うなとも言わなかった。あなたのようにうっとうしい倫理を説く者を説教臭いと感じる人もいるからそういう人達に対しても届く言葉をもっともっと考えろとも言わなかった。あなたの独善的でわかってます的な感じが嫌いで嫌いで仕方ないとも言わなかった。
あなたは女性というか女性という存在をリスペクトし過ぎていて女性に甘いとも言わなかった。あなたは誰かの上司ではないがもしあなたのような上司がいた場合ほかの男性は面白いと思わないから逆に女性差別が生まれるからマジで本当に気をつけろとも言わなかった。
何でも自分で背負おうとすることは美徳ではないし、あなたの孤独を表しているだけで周囲からすると信頼されていないと感じ苛々するしかなり不愉快だとも言わなかった。あなたは時々性を賛美することを書くけど性に奥手の人からするとその人間の性格次第で苛々するからやめておけとも言わなかった。
あなたがヴェトナム人女性をあそこまで好きになったのは彼女がヴェトナム人だったからとも言わなかった。あなたの特殊な同情癖がそこにはあって実はそれはあなたが日本という経済大国に住んでいる優越感から来ているわけだから、それはつまり差別なんじゃないかとも言わなかった。恋愛に陥るきっかけなどそんなものではあるし、確かに彼女の容姿や人格に惹かれたのだろうけど、あなたの同情癖から好きになったその彼女が死んだいま同情は永遠になりあなたはいつまでも死んだ彼女からこれでもう離れられないお前の人生はだからつまりもう終わりだとも言わなかった。
愚かなあなたと出会っていなければ、彼女は死んでなかったとも言わなかった。ついでに言うとあなたは自分が凄いと勝手に思ってるしそれを隠そうしてるけれど滲み出てるから余計苛々するとも言わなかった。何なんだお前は一体何なんだとも言わなかった。総合的に判断して、やっぱり私はあなたがとてもとてもとても嫌いだとも言わなかった。
恵美は涙をぬぐい、部屋を出て行った。出て行く前に僕をもう一度見たが、僕は恵美の顔をまともに見ることができないまま、ごめんと呟いた。なぜか恵美も同じ言葉を呟いた。これでもう、彼女とは生涯会わないだろうと思った。僕達の最後の言葉は、お互いへの謝罪だった。
※恵美と “僕” とは付き合って半年で、長い関係ではなかった。別れた恵美が他の男性のもとに行ったのは、彼女が結婚を考えてのことだったと思う。アインが死んだのは、アインに “僕” が 「結婚しよう」 と言った、次の日だった。
この本を読んでみてください係数 80/100

◆中村 文則
1977年愛知県東海市生まれ。
福島大学行政社会学部応用社会学科卒業。
作品 「銃」「遮光」「悪意の手記」「迷宮」「土の中の子供」「王国」「掏摸」「何もかも憂鬱な夜に」「A」「最後の命」「悪と仮面のルール」「教団X」「私の消滅」他多数
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