『歩道橋シネマ』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『歩道橋シネマ』恩田 陸 新潮文庫 2022年4月1日発行

歩道橋シネマ(新潮文庫)

ありふれた事件 - 銀行立てこもり事件の関係者が証言する想像を絶する事実。

今年の春の連休直前に、とある地方の県庁所在地、F市で起きた事件のことを覚えている人はいないだろう。
無職の男が閉店間際の地方銀行に飛び込み、行員と客を人質にして、六時間に亘って立てこもった。結局警察の急襲部隊が突入し、男は取り押さえられたが、客の一人が男に胸を刺されて死亡した。

取り押さえられた男は四十代半ば。失業してから一年近く経っており、心療内科への通院歴もあった。記事は、こういった事件にありがちな、こういう文章で締めくくられていた。
「男は取り調べに対してわけのわからない言葉を繰り返しており、警察は事件の背景について詳しく捜査することにしている」
命を落とした客にとってはたいへんな災難であり、非常に気の毒だと思ったものの、筆者もすぐにこの事件のことは忘れてしまった。

この事件のことを再び思い出したのは、ひと月ほど過ぎて、例年より少し早めに梅雨入りした頃である。

筆者の大学時代の友人はF市の出身で、大学を出てから郷里に戻っていたのは知っていたが、久しぶりに上京するというのを人づてに聞き、たまたま飲み会で顔を合わせた。その時に、ふと何かの拍子にこの事件について、最近奇妙な噂が流れていると話してくれたのだ。

仮に、友人をMとしよう。

最初に彼がこの事件を思い出したのは、近所の交番に貼り出されたポスターを目にした時だった。たどたどしいイラストが添えられたポスターは、先般起きた立てこもり事件の被害者について情報提供を呼びかけるものであり、身体的な特徴が列記され、服や持ち物の写真が載っていた。

足を止め、ポスターの内容を改めて読んだMは驚いた。なんと、この事件で犠牲になった六十歳前後の女性の身元が分からないというのだ。

そんなことってあるのだろうか。
不思議なことに、彼女は銀行に来ていたというのに、身元が分かるようなものを何ひとつ持っていなかったという。通帳もキャッシュカードも持っていなかったし、携帯電話すら見つからなかった。

イラストに記載のある彼女の格好は至極一般的だった。量販店の長袖Tシャツに、これまた量販店のフリースとストレッチジーンズ。身長は一五五センチ、パーマを掛けていて痩せ形で、見た目もごく普通。どこですれちがっていても気に留めないであろう、特徴のない十人並みの容姿だった。

こんなことってあるんだな。
Mはそれとなくその後の経過を気にしていたが、未だに身元確認に名乗り出る人はいないらしい。

やがて、どこからともなく別の噂が流れてきた。
事件に居合せた人々が、誰も当時のことを詳しく語りたがらないというのだ。

この事件は、どこかおかしい。そう感じた人が、複数いたのだ。(本文より抜粋)

※このあと、被害者女性について、事件現場に居合わせた何名かの証言が続きます。果たしてこの話の結末は? これはミステリーなんでしょうか。ホラーなんでしょうか。それとも案外シリアスな感じで終わるのでしょうか。

本番はこれからです。

それは他愛のない噂だった。その日、その時間にその場所に行けば、かつて大事にしていた記憶に出会えると - 。郷愁と不思議に彩られた表題作。学園のおぞましい秘密 「球根」。偶然出会った光景が物語を生成する 「皇居前広場の回転」。ある青年の死をめぐって驚愕の真実が明かされる 「降っても晴れても」。憧憬、恐怖、諧謔、戦慄、衝撃、恍惚・・・・・・・あらゆる感情が押し寄せる小説の奇跡、全18話。(新潮文庫)

この本を読んでみてください係数 85/100

歩道橋シネマ(新潮文庫)

◆恩田 陸
1964年青森県青森市生まれ。宮城県仙台市出身。
早稲田大学教育学部卒業。

作品 「夜のピクニック」「ユージニア」「六番目の小夜子」「中庭の出来事」「木洩れ日に泳ぐ魚」「蜜蜂と遠雷」「私の家では何も起こらない」「EPITAPH東京」他多数

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