『月』(辺見庸)_書評という名の読書感想文
『月』辺見 庸 角川文庫 2023年9月15日 3刷発行
善良無害をよそおう社会の表層をめくりかえし、誰もが見て見ぬふりをする暗がりを白日の下にさらす! 相模原の障がい者19人殺害事件に着想した、大量殺人の静かなる物語。【「TRC MARC」 より】
さとくんは何故19人もの人を殺したのか? 殺人犯の心理に迫った衝撃作
ベッドにひとつの “かたまり“ として横たわり、涯てなき思索に身を委ね続けるきーちゃん。世話をする施設職員のさとくんは、ある使命感に駆られ、この世の中をよくするため凶器を手に立ち上がる - 。社会に蠢く殺意と愛の相克、「にんげん」 現象の今日的破綻と狂気を正視し、善悪の二項対立では捉えきれない日本の歪みを射貫く。実際の障がい者施設殺傷事件に想を得た、凄絶なる存在と無の物語。解説・石井裕也 (角川文庫)
2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者施設 「津久井やまゆり園」 で起きた大量殺傷事件。入所者19人を殺害、26人に重軽傷を負わせた植松聖 (事件当時26) は、同施設に3年以上勤務した元職員でした。
被害に遭った人の多さもさることながら、世間の耳目を集めたのは、彼が犯行に至った動機でした。「意思疎通のとれない障害者は安楽死させるべきだ」 「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」 - 彼は 「至って冷静に」 「無駄は排除するべきだ」 と考えたのでした。
『月』 は、ごく簡単に言ってしまえば、僕のこれまでの文学体験のどれとも似つかない、まったく特殊の、異様なほどの熱気と殺気に満ちた傑作だった。
この小説は、きーちゃんというひとつの 「かたまり」 の想念から始まる。敢えて名状するなら 「重度障害者」 なのだろうが、この物語のきーちゃんは性別や年齢は不詳。目が見えないし歩けないどころか、上下肢ともにまったく動かない。そんなきーちゃんの散り散りで切れ切れでバラバラの言葉 (思い) と共に、読者は実態のない想念の海を漂わされたり、想念の空を塵のように浮遊させられる。
きーちゃんの 「思い」 は、そもそも存在するのかどうかさえ分からないもの。確かめようもないもの。でも、決して 「ない」 とは言えないもの。僕はまるで異次元の世界に連れて行かれたように困惑しながら読み進めたのだが、重度障害者の思考の内側に入り込もうとこころみた辺見さんの想像力に感嘆する他なかった。
例えば津久井やまゆり園の事件について、安全距離を取った上での悲嘆は誰にでもできる。「すべての命が尊い。すべての命が平等だ」 と月並みな綺麗事を言うこともたやすい。現に 「有識者」 と呼ばれる人は大抵眉をひそめながらテレビで異口同音にそう言っていた。
でもそれが何になるというのか。辺見さんは、もっと確かな接近をこころみた。つまり、重度障害者たちが次々に殺害された事件を他人事のように傍観するするのではなく、まず被害者の血しぶきを浴びる位置に行こうとした。いや、もっと言うと、その血しぶきの内側からこの事件を見ようとした。
いわば覚悟を持った作家がきーちゃんの想念の中に入り込んだ。そしてもちろん、同時に大量殺人に手を染めることになるさとくんの中にも入り込んだ。きーちゃんと同じかそれ以上に、僕はさとくんのことが分からない。だから、彼ら二人の 「思い」 と共に進められていくこの小説の中で、僕はますます混乱に陥る。(解説より)
「あのう、あかぎさん、パ・・・・・・・ってなんでしょうかね。よくわからないんです」
あかぎは即座にはりかいできなかった。かれがそのようなことばを口にするはずがないと無意識におもいこんでいたために不意をつかれたこともある。あかぎはさとくんの右側に移動した。
「パーソンフッドです。パーソンであること。そのひとらしさ。そのひとらしさってなんでしょうかね・・・・・・・。あかぎさんは、だれにでも人格があるとおもいますか。ジンカクってなんですかね・・・・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「にんげんとはなにか、あるとき辞書でしらべたことがあるんです。大辞林で。そうしたら、第一項目に 『(機械・動植物・木石などにはない、一定の感情・理性・人格を有する) ひと。人類』 とあるのですね。第二項目には 『(ある個人の) 品位・人柄。人物』 とありました。
なるほどな・・・・・・・とぼくはおもいましたよ。へえ、そんなもんかよ、と。ああ、これを書いたひとは園のことなんかなにも知らないのだな、かんしんがないのだな、そのことでとくに苦しんでも悩んでもいないのだな・・・・・・・そう、ぼくは感じました。
ご存じかもしれませんが、園には 『一定の感情・理性・人格』 をもつとはとてもおもえない入所者たちがたくさんいます。それでですね、入所者たちが 『一定の感情・理性・人格』 をもっているかどうか、ぼくは、なんどもなんどもなんども、かんがえたことがあります。ジツブツをまぢかに注意深くみながら、すごく真剣に、です。だって、これはとてもだいじなことですから・・・・・・・」
すでになんどもおもうか、だれかに話すかしたことのあることなのだろう。さとくんは息もきらさずに、ほとんどよどみなく話しつづけた。ときおり鎌を上下にふりながらしゃべり、あるいた。さとくんは外股で、ややがに股ぎみだった。どこかでサイレンがとぐろをまいて、風のまにまにながれてゆく。森は黒くしずもっている。(本文より/一部略)
※リアルな描写が続く、いわばドキュメンタリー に近い本だと思って読み出すと、ひどい目に遭います。まるで真逆のような体裁で、読み続けるには相応の努力と忍耐が必要です。特に、きーちゃん。彼女は (あるいは彼は)、想いを伝える術が一切ありません。なのに、至って饒舌です。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆辺見 庸
1944年東京都宮城県生まれ。
早稲田大学文学部卒業。
作品 「自動起床装置」「もの食う人びと」「生首」(詩集)「眼の海」他多数
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