『職業としての小説家』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『職業としての小説家』(村上春樹), 作家別(ま行), 書評(さ行), 村上春樹

『職業としての小説家』村上 春樹 新潮文庫 2016年10月1日発行

第二回(章)「小説家になった頃」より

1978年4月のよく晴れた日の午後に、僕(30歳を目前にした村上春樹氏)は神宮球場に野球を見に行きました。その年のセントラル・リーグの開幕戦で、ヤクルト・スワローズ対広島東洋カープの対戦でした。午後一時から始まるデー・ゲームです。

開幕戦とはいえ、外野席はがらがらです。当時の神宮の外野は椅子席ではなく、芝生のスロープがあるだけでした。空はきれいに晴れ渡り、生ビールはあくまで冷たく、久しぶりに目にする緑の芝生に、白いボールがくっきりと映えています。

広島の先発ピッチャーはたぶん高橋(里)だったと思います。ヤクルトの先発は安田でした。一回の裏、高橋(里)が第一球を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。

僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。

そのときの感覚を、村上氏はまだはっきり覚えているといいます。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分だったといいます。

なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事で、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じ。それがまさに、その日の午後に、村上氏の身に起こったというのです。

試合が終わるとすぐに新宿の紀伊國屋へ行き、原稿用紙と万年筆を買います。当時はまだワープロもパソコンも普及していませんでしたから、手でひとつひとつ字を書くしかありません。でもそこにはとても新鮮な感覚があり、胸がわくわくしたといいます。

こうして、夜遅く、店の仕事を終えてから(当時彼はジャズ・バーを経営していました)、台所のテーブルに向かって書き出した初めての小説が『風の歌を聴け』だったのです。

ところが、そうそううまくは行きません。ずいぶんな手間をかけ、半年ほどしてようやく書き上げた原稿用紙200枚ほどの作品だったのですが、思うほど面白くないし、心に訴えかけてくるものがありません。書いた本人が読んでそう感じるわけですから、読者はなおさらそう感じるに相違ない - 村上氏はひどく落ち込んだといいます。

普通ならそこであっさりあきらめてしまうのかもしれません。しかし、そのときの村上氏にはまだ、神宮球場外野席で得た「啓示」のような感覚がくっきり残っていたといいます。若かりし当時の村上氏は、どうにかして面白い小説を作ろうと再び奮起します。

さて、実はここから先が最も興味深いところなのですが、村上春樹が作家・村上春樹として他の誰とも違う独自の文体を手に入れる、まさにその初動の様子が事細かに解説されています。

おそらくは村上氏にしか思いつかないであろう、しかしもしもあなたがその気になってチャレンジしようとするなら出来なくもない、さほど突飛とは思えない、けれど恐ろしく忍耐の要る作業です。興味のある方は、ぜひ一度真似してみてはどうでしょう。

「群像」の編集者から「村上さんの応募された小説が、新人賞の最終選考に残りました」という電話がかかってきたのは、前の日の仕事が夜遅くまであり、まだぐっすり眠っていた時のことです。

編集者の話によれば、村上氏のものを含めて全部で五編の作品が最終選考に残ったというのですが、眠かったこともあり、あまり実感は湧かなかったといいます。布団を出て顔を洗い、着替えて、妻と一緒に外に散歩に出たといいます。

明治通りの千駄谷小学校のそばを歩いていると、茂みの陰に一羽の伝書鳩が座り込んでいるのが見えます。どうやら翼に怪我をしているようです。村上氏はその鳩をそっと両手に持ち、近くにある交番まで持って行きました。

そのあいだ傷ついた鳩は、手の中で温かく、小さく震えていました。よく晴れた、とても気持ちの良い日曜日で、あたりの木々や、建物や、店のショーウインドウが春の日差しに明るく、美しく輝いていました。

そのときに村上氏ははっと思ったのだそうです。僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと。そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。すごく厚かましいようですが、村上氏はなぜかそう確信したといいます。

とてもありありと。それは論理的というより、ほとんど直観に近いものだったそうです。

いかがですか? なんだか、ちょっと良くはありません?

「村上春樹」は小説家としてどう歩んで来たか - 作家デビューから現在までの軌跡、長編小説の書き方や文章を書き続ける姿勢などを、著者自身が豊富な具体例とエピソードを交えて語り尽す。文学賞について、オリジナリティーとは何か、学校について、海外で翻訳されること、河合隼雄氏との出会い・・・・読者の心の壁に新しい窓を開け、新鮮な空気を吹き込んできた作家の稀有な一冊。(新潮文庫より)

この本を読んでみてください係数 85/100


◆村上 春樹
1949年京都府京都市伏見区生まれ。
早稲田大学第一文学部演劇科を7年かけて卒業。

作品 「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」「女のいない男たち」他多数

関連記事

『首の鎖』(宮西真冬)_書評という名の読書感想文

『首の鎖』宮西 真冬 講談社文庫 2021年6月15日第1刷 さよなら、家族

記事を読む

『せんせい。』(重松清)_書評という名の読書感想文

『せんせい。』重松 清 新潮文庫 2023年3月25日13刷 最泣王・重松清が描く

記事を読む

『人面瘡探偵』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『人面瘡探偵』中山 七里 小学館文庫 2022年2月9日初版第1刷 天才。5ページ

記事を読む

『生存者ゼロ』(安生正)_書評という名の読書感想文

『生存者ゼロ』安生 正 宝島社文庫 2014年2月20日第一刷 北海道根室半島沖に浮かぶ石油掘

記事を読む

『あの女』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『あの女』真梨 幸子 幻冬舎文庫 2015年4月25日初版 ただ幸せになりたいだけなのに。そ

記事を読む

『小説 学を喰らう虫』(北村守)_最近話題の一冊NO.2

『小説 学を喰らう虫』北村 守 現代書林 2019年11月20日初版 『小説 学を

記事を読む

『潤一』(井上荒野)_書評という名の読書感想文 

『潤一』井上 荒野 新潮文庫 2019年6月10日3刷 「好きだよ」 と、潤一は囁い

記事を読む

『いかれころ』(三国美千子)_書評という名の読書感想文

『いかれころ』三国 美千子 新潮社 2019年6月25日発行 「ほんま私は、いかれ

記事を読む

『ゼツメツ少年』(重松清)_書評という名の読書感想文

『ゼツメツ少年』重松 清 新潮文庫 2016年7月1日発行 「センセイ、僕たちを助

記事を読む

『しょうがの味は熱い』(綿矢りさ)_書評という名の読書感想文

『しょうがの味は熱い』綿矢 りさ 文春文庫 2015年5月10日第一刷 結婚という言葉を使わず

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『ついでにジェントルメン』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『ついでにジェントルメン』柚木 麻子 文春文庫 2025年1月10日

『逃亡』(吉村昭)_書評という名の読書感想文

『逃亡』吉村 昭 文春文庫 2023年12月15日 新装版第3刷

『対馬の海に沈む』 (窪田新之助)_書評という名の読書感想文

『対馬の海に沈む』 窪田 新之助 集英社 2024年12月10日 第

『うたかたモザイク』(一穂ミチ)_書評という名の読書感想文

『うたかたモザイク』一穂 ミチ 講談社文庫 2024年11月15日

『友が、消えた』(金城一紀)_書評という名の読書感想文

『友が、消えた』金城 一紀 角川書店 2024年12月16日 初版発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑