『生皮/あるセクシャルハラスメントの光景』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『生皮/あるセクシャルハラスメントの光景』井上 荒野 朝日新聞出版 2022年4月30日第1刷

皮を剥がされた体と心は未だに血を流している。

動物病院の看護師で、物を書くことが好きな九重咲歩は、小説講座の人気講師・月島光一から才能の萌芽を認められ、教室内で特別扱いされていた。しかし月島による咲歩への執着はエスカレートし、肉体関係を迫るほどにまで歪んでいく - 。7年後、何人もの受講生を作家デビューさせた月島は教え子たちから慕われ、マスコミからも注目を浴びはじめるなか、咲歩はみずからの性被害を告発する決意をする。なぜセクハラは起きたのか? 家族たちは事件をいかに受け止めるのか? 被害者の傷は癒えることがあるのか? 被害者と加害者、その家族、受講者たち、さらにはメディア、SNSを巻き込みながら、性被害をめぐる当事者の生々しい感情と、ハラスメントが醸成される空気を重層的に活写する、著者の新たな代表作 (朝日新聞出版)

〇小荒間洋子の場合 - 彼女は月島の指導を受け、その甲斐あって文芸誌の新人賞を取ります。その後職業作家となり、芥川賞を受賞します。

十七年前のことになる。洋子は二十六歳、亮二は二十八歳で、結婚して一緒に暮らしはじめてから半年も経っていなかった。ドーナツを買いに行って亮二は死んじゃった。彼の死後しばらくの間、洋子は誰彼に、ヘラヘラ笑いながらそう言っていたらしい。その頃のことは渦を巻く泥のようで、自分がどうしていたかほとんど記憶にないのだが。

子供を堕ろしたのも、その泥の中でのことだった。もちろん自分の意思で病院へ行き、自分の意思でそれを決めた。亮二が死んだのだからそうするしかないだろうと思ったのだ。思ったことは覚えている。だがあとから考えれば、あのときの自分は自分ではなかった。自分がやろうとしていることの意味がわかっていなかったし、あるいは意味など考えていなかった。

泥の中から脱け出すことができたのは、小説を書きはじめたからだった。

- 自分の小説が他人にはどう読まれるのか知りたくて、カルチャーセンターへ行った。そこで月島光一に会った。

了解などしていなかった。私はいやだった。月島に触れられることが気持ちが悪くてしかたがなかった。

月島に無理やりそんなことをされているという事実に衝撃を受けていて、抵抗すれば、それが事実よりももっとどうしようもない事実になってしまうように思えた。そのどうしようもない事実は月島を傷つけるだろう - いや、彼よりももっと、私自身を傷つけるだろう。月島を信じてきた私、月島との出会いに感謝してきた私、月島のおかげで小説というものを理解していった私、そうして獲得した方法、私の小説をも。

やりすごせたように思っていた。その後も月島の講座に通ったし、受講をやめてからも、小説家としてデビューしてからも何度も会った。体の関係を求められることは以後はなかった。

ふたりきりになる機会を洋子が徹底して避けたせいかもしれなかったし、そんな態度に月島が鼻白んだのかもしれなかったが、調子が上がらないみたいだなと言われることももうなかった。ふつうに喋れた。冗談すら言った。でも、あれもまた泥だったのだ。

洋子は思う。月島と会うときはいつでも、体の中に腐った黒い泥のようなものが詰まっていた。さっきの電話のときもそうだ。大人の関係なんかじゃない。小説的関係なんかであるものか。あの夜、月島のペニスを体の中に押し込まれたときの感触はずっと消えない。だから恋をすることにも消極的になった。いやだったのだ。私はいやだったのだ。(本文第三章より抜粋)

先日、京都新聞の朝刊 (2022.4.20付)にこんな記事が載りました。

「♯文学界に性暴力のない土壌を作りたい」。そんなハッシュタグ (検索目印) を付けた作家たちのメッセージが、ツイッターで続々と発信されている。山崎ナオコーラさんの14日の投稿を皮切りに、多くの作家や出版関係者が自身の体験や心情をつづっている。

文学界のみならず映画界等も同様で、これまで明るみに出なかったセクハラの数々が、当事者からの勇気ある告発で、漸うにして白日の下に晒され、皆が事の実態を知るに至ります。この間、被害者たる女性たちはどんな思いでいたのでしょう。致し方なかったとはいえ、相手が望む行為に応じてしまったという事実を前に、自らを恥じ、悔いてはいるものの人には言えず、ひとり血の涙を流していたのでしょう。

柴田咲歩 (旧姓 九重咲歩) が月島光一をセクシャルハラスメントで告発したのは、事のあった、実に7年後のことでした。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「虫娘」「ほろびぬ姫」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「ママがやった」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」「あちらにいる鬼」他多数

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