『風葬』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『風葬』(桜木紫乃), 作家別(さ行), 書評(は行), 桜木紫乃

『風葬』桜木 紫乃 文春文庫 2016年12月10日第一刷

釧路で書道教室を営む夏紀は、認知症の母が呟いた、耳慣れない地名を新聞の短歌の中に見つける。父親を知らぬ自分の出生と関わりがあるのではと、短歌を投稿した元教師の徳一に会いに根室へ。歌に引き寄せられた二人の出会いが、オホーツクで封印された過去を蘇らせる・・・・。桜木ノワールの原点ともいうべき作品、ついに文庫化。(文春文庫)

沢井徳一と彼の息子、優作。そして、篠塚夏紀という女性。三人が今いるのは、根室の、地図にも載らない小さな岬。地元では「涙香岬」と呼ばれています。

夏紀の母・春江は、おそらくは初期の認知症であろうと診断されています。近ごろ春江は夜更けに起き出し、焦点の合わない眼をして「行かなくちゃ」と呟くように言う日が続いています。「どこへ行くっていうの」と夏紀が訊くと、「ルイカミサキ」と答えます。

そんな折、ひょんなことから - 徳一が作った岬の短歌が新聞に載り -「ルイカミサキ」が「涙香岬」のことだと分かります。

母・春江の出生について、夏紀はそれまで何一つ知らされてはいません。父はおろか祖父母親戚、おおよそ血のつながりのある人間というものに会ったことがありません。夏紀はこれを機会にそれらを知りたいと思い、岬へ行ってみようと、徳一と連絡を取ります。

約束の日。夏紀を間近にし、それまでは彼女に駆け寄らんばかりだった徳一の足が突然止まります。互いに挨拶を交わすのですが、父がしどろもどろになっているのを見て、優作は笑いそうになります。元は教師の、少々人慣れが鼻につく徳一には珍しいことです。

涙香岬は街からみると少し小高い場所にあります。夏紀は車窓を流れてゆく景色に春江の過去を探します。道路の片側には昔の商店の面影を残す木造平屋建ての家が数軒並んでいます。今はもう商売の気配はなく、屋根の塗装は剥げ、錆びて赤茶色をしています。

優作の運転する車は、市街地から続く穏やかな坂を上り切り、海側に折れます。狭い道を入ってゆくと、水産会社の建物や事務所、カニ工場直売所の小屋があります。背の低い建物の上部には、何本もの電線が交差しながら張りめぐらされています。

車は工場の敷地内のような通路を通り、その先にある駐車場まで進みます。駐車場には使い古された水産加工場の水槽やコンテナ、錆びた大型冷凍庫や古い足場など、廃材が山となって積まれています。

「がっかりされるかもしれませんが、ここが涙香岬です」徳一の声に、夏紀ははっと我に返ります。もっと荒涼とした断崖絶壁を想像していた夏紀は、「ここは、ずっとこうした場所だったんでしょうか」と訊くと、徳一は少し遠い眼差しになり、「工場が建ったのは20年くらい前でしょうか。それまではただの空地でした」と答えます。

「なぜ地図には載っていないんですか」という質問に対して、「通称なんですよ。この名は土地の人間もあまり知らないんです」と徳一は言い、わずかな沈黙のあと、軽く深呼吸をして目を伏せたのでした。

ルイカというのは、アイヌ語で橋を意味します。見えもしない橋を信じて一歩踏み出さざるを得なかった、(昔ここで栄えた遊郭の)遊女たちの心根が悲しいですね - 徳一の言う昔話に頷きながら、夏紀はもう一度ここに来ようと心に決めます。
・・・・・・・・・
篠塚夏紀を初めて見た時、徳一は常にない大きな動揺を感じます。慌てる気持ちをどうにか悟られまいと、そればかりを考えています。そして、夏紀と出会ったことで、昔関わったある母娘のことを改めて調べてみようと思い立ちます。

30年前、徳一が根室に赴任してすぐに受け持ったクラスに、入学式に出てこなかった女子生徒がいます。佐々木彩子というその不登校の女子生徒は、拿捕された父親が病死して帰国したその年の冬、彼女もまた海で死んだのでした。

徳一が捜しているのは佐々木三代子。死んだ彩子の母親で、10年前、三代子は何の挨拶もなく岬の家からいなくなったといいます。以前、隣に住む夫婦が、一度だけ腹のせり出した彩子を見たといいますが、彩子の葬儀に赤ん坊の姿はなく、その生死も消息も分からないでいます。

徳一には三代子を探すある特別な理由があります。どうして今さらその親子のことを調べなきゃいけないんだ。調べてどうしようというのかと優作が問うと、「ずっと気がかりだったんだ。30年、ずっとだ」と徳一が言います。

「答えになっていないだろう」とさらに優作が問い詰めると、徳一は優作の顔を見上げ、ゆっくりと息をつき、こう言ったのです。

今になって、死んだ佐々木彩子とうり二つの女が亡霊みたいに訪ねて来たとしたら、お前ならどうする」・・・・物語は、こんなふうに始まってゆきます。

この本を読んでみてください係数  80/100

◆桜木 紫乃
1965年北海道釧路市生まれ。
高校卒業後裁判所のタイピストとして勤務。

作品 「起終点駅/ターミナル」「凍原」「ラブレス」「ワン・モア」「ホテルローヤル」「硝子の葦」「無垢の領域」「蛇行する月」「星々たち」「ブルース」など

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