『錆びる心』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『錆びる心』(桐野夏生), 作家別(か行), 書評(さ行), 桐野夏生
『錆びる心』桐野 夏生 文芸春秋 1997年11月20日初版
著者初の短編集。常はえらく長い小説を書く人というイメージがあるのですが、実はこの後も続けて『ジオラマ』という短編集を出しています。好みはあると思いますが、桐野夏生テイストは健在で、読後感は決してよろしくありません。
6つの短編はそれぞれに、人間の内側に潜む凶暴さや狂気、卑屈さとか復讐心といった類いのネガティブな性向を日々の暮らしの中から抽出してみせてくれます。読み進める内に著者の作為に気付かされて、不気味でいやぁな気分になるのです。
血生臭いシーンが出てくるわけではありません。普段の生活で、内に潜んでいる想いや封じ込められた願いなどが、何かの拍子に思いがけず表出するさまを桐野夏生は描こうとしたのだと思います。
「錆びる心」
そもそも絹子と良幸の結婚が互いの打算の産物であったことが、話の前提にあります。
絹子は自分の劣等感に対する反動で、国立大学の講師という良幸の肩書だけに惹かれます。
良幸はもっと学歴の高い女性と結婚することを望んでいたのですが、大人しいという理由だけで妥協して絹子と結婚するわけです。絹子の浮気も、漠然とした恋愛のし残し感につい間がさした、必然性の乏しい一時的な衝動でした。
良幸は絹子の浮気を許すものの、以後の絹子はまるで家政婦のような扱いを強いられることになります。自由になる金は一銭も与えられず、働くことや習い事も許されず、家のある町から外へ出ることも禁じられてしまいます。世間体だけで絶対離婚しないと言う良幸の、絹江に対する度が過ぎた報復でした。
きっかり10年経ったら家を出る。家を出て、本当に必要とされる家政婦になる...絹子はその一念で長い月日を耐え忍んだのでした。
絹子が家政婦として働くことになった打田家の人々...繁子と梅子は年老いた姉妹、康夫は繁子の息子ですが病で臥せっています。あとはミドリという二十歳すぎの娘が打田家のメンバーです。
打田家の気がかりは今年40歳になる康夫でした。康夫は胃ガンで、余命はあと一ヶ月ほどだと医者から言われています。ある夜、絹子は康夫から自分を庭へ連れ出してほしいと頼まれます。芝生の上に座った康夫から、絹子は意外な話を聞かされることになります。
ミドリは打田家の人間ではなく、お手伝いでした。しかも知恵遅れで、役に立たないと言われながらも康夫が望んで雇い入れたのでした。ミドリは康夫に懐いて、康夫の世話は彼女の仕事になっています。無垢で可愛いミドリですが、康夫が彼女を傍に置いておきたい理由は別にありました。
彼女に教えたいことがあったのだ、と康夫は言うのです。
康夫がミドリに教えたかったこととは...自分が死んでいく、ということでした。懐いているミドリに、康夫を失う悲しみを植え付けたいという衝動がある、と打ち明けられるのです。醜い衝動ですが、それは「他人だからできる」ことだと康夫は言います。
康夫の告白を聞いて、絹子は自分が10年間耐えた後で計画的に家出したことの意味に初めて気付きます。絹子の行動は、夫の良幸の心に自分の何かを印象的に、しかもはっきりと傷つける形で残そうとした、康夫の衝動に似た醜悪な代物だったのです。
絹子は、自分にとっての良幸が、一方的に斬りつけて傷を負わせ、拭えない記憶を刻んだとしても厭わない、あくまでも「他人」だったことを今更ながらに知るのです。
・・・・・・・・・・
「錆びる心」の他には、「虫卵の配列」「羊歯の庭」「ジェイソン」「月下の楽園」「ネオン」の5編が収められています。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆桐野 夏生
1951年石川県金沢市生まれ。父親の転勤で3歳で金沢を離れ、仙台、札幌を経て中学2年生で東京都武蔵野市に移り住む。
成蹊大学法学部卒業。24歳で結婚。シナリオ学校へ通い、ロマンス文学やジュニア文学、漫画の原作などを手がける。
作品 「顔に降りかかる雨」「OUT」「グロテスク」「玉蘭」「残虐記」「魂萌え!」「東京島」「IN」「ナニカアル」「ハピネス」「だから荒野」「夜また夜の深い夜」他多数
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