『生きる』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/02/12 『生きる』(乙川優三郎), 乙川優三郎, 作家別(あ行), 書評(あ行)

『生きる』乙川 優三郎 文春文庫 2005年1月10日第一刷

亡き藩主への忠誠を示す「追腹」を禁じられ、生き続けざるを得ない初老の武士。周囲の冷たい視線、嫁いだ娘からの義絶、そして息子の決意の行動 - 。惑乱と懊悩の果て、失意の底から立ち上がる人間の強さを格調高く描いて感動を呼んだ直木賞受賞作他、「安穏河原」「早梅記」の二篇を収録した珠玉の中篇集。(文春文庫)

「時代小説はどうも・・・・・・・」という方にこそお勧めしたい一冊です。読むと必ず「今」を感じることになります。今いる自分、今まで生きた己の半生を思い返さずにはいられなくなります。

病質と心労で寝込んでいる(妻)佐和の顔を見てから、又右衛門は久し振りに部屋の障子を開けて、菖蒲の咲く庭を眺めています。五十にもなって情けないものだ・・・・・・・、又右衛門はこの十日が一夜の夢であってくれたらと、ふとそんな思いに耽っています。

筆頭家老・梶谷半左衛門の言葉を信じ従ったことで、又右衛門がこれまで信じて疑わなかった武家の概念というものが、見る間に変化をします。そしてそのことは、その後の又右衛門の人生に、取り戻せない、大きな後悔を残すことになります。

自分のことはともかくも、それは息子や娘、身の内の多くにも及び、計り知れない不幸を招くことになります。又右衛門は、もはや生きてゆく自信や気概といったものをまるで失くした、「生きて死んだ」人のようになり果てるのでした。

殉死は真鍋恵之助(又右衛門の娘・けんの夫)が最後ではなく、それどころか飛騨守(ひだのかみ:藩主)の葬儀の日に三人、その後もひとりまたひとりと続き、遺族が病死と届け出たものも加えると昨日までに十七名が追腹(おいばら)を切っている。

そこまで数が増すと、禁令はあってないに等しく、次は石田又右衛門か小野寺郡蔵かと囁かれ、城にいても肘でつつかれるようで落ち着かない日が続いた。

「追腹」とは、家来が主君の死のあとを追って切腹することをいいます。「供腹」ともいい、世話になった主君に対する奉謝と忠誠の気持ちを、自らの死をもって知らしめること、当時、武士と生まれた者にとっては先から承知の覚悟だったわけです。

又右衛門は、言われるまでもなく、とうに死ぬつもりでいたのでした。それを、若い家老の梶谷が「するな」と命じ、すれば処罰を与えると決めたのでした。

又右衛門と郡蔵を前にして、家老はこう言い募ります。「わしはな、小野寺、そなたにも石田にも生きてもらいたいと考えておる、禁令をもってしてもおそらく追腹はなくなるまい、逆に抗議の意味で腹を切るものが現れるかもしれん、

うまく数が減れば減ったで他家の嘲笑をあびるであろう、しかしそれでも追腹はなくしたい、同じ命を捧げるのであれば、まこと御家のためになることに捧げるのが家臣の務め、そのことを生きてその身で示してもらいたいのだ」

「卑怯もの、臆病もの、恩知らずと罵られるであろう、わしにはそれを止めることもたいした手助けもできぬ、それだけ二人にはつらく長い戦いになるであろう、だが必ずや汚名を雪ぐ日は来る」

「どうであろう、今日ここで死んだつもりで生きてくれぬか、殿もそれでよいと仰せられるに違いない、いずれ宗之さま(次の藩主)にもわしから事実を申し上げよう」

そう言われて二人は返す言葉が見当たらず黙り込んでしまうと、梶谷家老は承諾したものとして二人の前に用意していた誓紙を差し出します。

いかなる場合にも決して腹を切らぬこと、それが藩命であることを他言せぬこと、そしてその二点を守る限り両家の存続を保証するという一文を加えた起請誓紙を差し出され、その場の苦痛から逃れるように小野寺がまず筆を取り、又右衛門が後に続きます。

二人の武士にとり、それは辛すぎる苦渋の末の判断で、その先二人に待っているのは、それをも凌ぐ惑乱と懊悩、長い長い屈辱の日々 - であるわけですが、不意を衝かれた動揺もあり、二人が真に覚悟を決めるのは、もう少しあとのことになります。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」「ロゴスの市」「太陽は気を失う」「トワイライトシャッフル」他多数

関連記事

『墓標なき街』(逢坂剛)_書評という名の読書感想文

『墓標なき街』逢坂 剛 集英社文庫 2018年2月25日初版 知る人ぞ知る、あの <百舌シ

記事を読む

『木になった亜沙』(今村夏子)_圧倒的な疎外感を知れ。

『木になった亜沙』今村 夏子 文藝春秋 2020年4月5日第1刷 誰かに食べさせた

記事を読む

『うたかたモザイク』(一穂ミチ)_書評という名の読書感想文

『うたかたモザイク』一穂 ミチ 講談社文庫 2024年11月15日 第1刷発行 祝・直木賞受

記事を読む

『エンド・オブ・ライフ』(佐々涼子)_書評という名の読書感想文

『エンド・オブ・ライフ』佐々 涼子 集英社文庫 2024年4月25日 第1刷 「理想の死」

記事を読む

『にぎやかな落日』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『にぎやかな落日』朝倉 かすみ 光文社文庫 2023年11月20日 初版1刷発行 「今まで自

記事を読む

『夜の道標』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『夜の道標』芦沢 央 中公文庫 2025年4月25日 初版発行 第76回 日本推理作家協会賞

記事を読む

『死にたくなったら電話して』(李龍徳/イ・ヨンドク)_書評という名の読書感想文

『死にたくなったら電話して』李龍徳(イ・ヨンドク) 河出書房新社 2014年11月30日初版

記事を読む

『日輪の遺産/新装版』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『日輪の遺産/新装版』浅田 次郎 講談社文庫 2021年10月15日第1刷 これこ

記事を読む

『人間タワー』(朝比奈あすか)_書評という名の読書感想文

『人間タワー』朝比奈 あすか 文春文庫 2020年11月10日第1刷 桜丘小学校の

記事を読む

『イヤミス短篇集』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『イヤミス短篇集』真梨 幸子 講談社文庫 2016年11月15日第一刷 小学生の頃のクラスメイトか

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『羆嵐』(吉村昭)_書評という名の読書感想文

『羆嵐』吉村 昭 新潮文庫 2026年12月20日 62刷発行

『妊娠カレンダー』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『妊娠カレンダー』小川 洋子 文春文庫 2020年12月20日 第2

『カフェーの帰り道』(嶋津輝)_書評という名の読書感想文

『カフェーの帰り道』嶋津 輝 東京創元社 2026年1月23日 4版

『きっと君は泣く』(山本文緒)_書評という名の読書感想文

『きっと君は泣く』山本 文緒 角川文庫 2026年1月25日 改版初

『彼女たちが隠したかったこと』(一木けい)_書評という名の読書感想文

『彼女たちが隠したかったこと』一木 けい 角川文庫 2026年1月2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑