『誘拐』(本田靖春)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/11 『誘拐』(本田靖春), 作家別(は行), 書評(や行), 本田靖春

『誘拐』本田 靖春 ちくま文庫 2005年10月10日第一刷

東京オリンピックを翌年にひかえた1963年、東京の下町・入谷で起きた幼児誘拐、吉展ちゃん事件は、警察の失態により犯人取逃がしと被害者の死亡によって世間の注目を集めた。迷宮入りと思われながらも、刑事たちの執念により決着を見た。犯人を凶行に走らせた背景とは? 貧困と高度成長が交錯する都会の片隅に生きた人間の姿を描いたノンフィクションの最高傑作。(ちくま文庫)

帯にこんな文章があります。

1963年、高度経済成長期。時代が、社会が、運命が、一人の男を踏みにじり、一顧だにせず、置き去りにした。男は事件当時30歳。一億総中流へと向かう日本のひずみをその身に被り、疎外感のなかでしゃにむに伸ばした彼の手の先は、幼子の無垢な命を摘み取ってしまう。
冒頭の一文から、途切れることなく流れ続ける哀れみの歌。この本は怒りとやるせなさに満ち、最後の風景は読む者の感情を根こそぎ奪い去る。だからこそ私は迷うのだ。被害者と加害者の命そのものを塗り込めたようなこの作品を、安易に薦めることを。(「本書を読んで私は迷った」 さわや書店フェザン店/松本大介)

松本氏のいう「ひずみ」、「哀れみ」や「やるせなさ」といった感情は、おそらくある程度歳を取った方なら、(もしもあなたが、何も為せずに今に至った失意の人であったとしたら) 直に響いて震えるような、胸が痞えてつらくなる、そんな場面を指して言っているのだろうと思います。

死んだ吉展ちゃんが哀れなら、罪を犯した小原保という男もまた哀れであるのに、読むとおそらく言葉を失くしてしまうのではないかと。皆がはしゃぐ時代にあって、それを横目に、ただただ貧しく、寄る辺もなく、しかも不具者だとしたらどうでしょう ・・・・・・

小原保は昭和8年1月生まれ。父末八と母トヨの第10子として生を受けます。この時、三男、三女、五女の3人はすでに世を去っており、五男の保には兄と姉が3人ずついたことになります。そして翌々年、弟が出来ます。

生家は福島県石川郡旧母畑村の法昌段という集落で、彼は片田舎の開拓部落にあって赤貧洗うがごとき環境で育ちます。不運は重なり、子どもの頃のあかぎれが元で骨髄炎を患い、その後遺症から片足をひきずるハンデを負います。

そもそもそこで暮らす人々は、家に継ぐべき財産と呼べるものが何一つなく、その上、父祖から受け継いだ血脈に潜む、暗い宿命の予感とでもいったものにいつも脅かされ、息を詰めるようにして暮らしています。

保の近親には、癲癇持ちや聾啞者など先天的障害者ばかりが生まれます。父方の祖父の家にいる異常に肥った老人は世間から白痴呼ばわりされており、祖父の妹のカメ婆さんは赤い着物でふらふらとそこいらを歩き、学校帰りの子どもらに石を投げられたりします。

保の一番上の姉であるイサヨは年中「頭が痛い」と言い、その連れ合いの草刈正直は父の姉の子でイサヨとはいとこ同士で、彼もまた始終頭痛を訴え、そのうち血を吐いて亡くなります。父方の叔父の伍助には歯がありません。抜けたのではなく、生まれてこの方、一本も生えたことがありません。

母の従姉に癲癇持ちのソノという人物がおり、彼女は、囲炉裏で発作を起こしてひっくりかえり焼け死んでしまいます。その長男・栄造は、子どもを背負って農薬をあおり、水溜りに首を突っこんで自殺しています。

狭い範囲のなかで血の交わりを重ねることで生じる弊害が、小原家につながる一族に色濃くあらわれているのがわかります。幼い保の耳に入ってくるのは、「あの家には悪い血が流れている」という、閉鎖性と排他性をむきだしにした口さがない評判ばかりでした。

保は、そんな淀んだ空気の故郷から、耳と目をふさぐようにして逃げ出し、東北線の最終駅、上野駅に降り立ったのでした。時あたかも東京オリンピックの直前で、高速道路や地下鉄の建設が急ピッチで進められています。

東北の貧農たちが大挙して東京に出稼ぎにやってくる高度経済成長のまっただなか、小卒で肉体的にもハンデを抱え、保だけがその恩恵に浴せずにいます。

※「吉展ちゃん誘拐事件」とは
1963年、東京都台東区入谷町で起きた男児誘拐殺人事件。犯人は被害者宅へ身代金を要求し、これを奪取することに成功する。事件は解決を見ないまま2年が過ぎ、もはや迷宮入りかと思われたが ・・・・・・。
日本初の報道協定が敷かれた事件。公開捜査に踏み切ってからは犯人からの脅迫電話を公開するなどメディアを通じて日本全土の注目を集めた。その国民的関心度の高さから「戦後最大の誘拐事件」とも呼ばれた。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆本田 靖春
1933年朝鮮に生まれる。2004年、死去。
早稲田大学政経学部新聞学科卒業。その後、読売新聞社に入社。71年、退社。

作品 77年、本作にて文藝春秋読者賞、講談社出版文化賞受賞。他に「不当逮捕」「我、拗ね者として生涯を閉ず」(遺作)などがある。

関連記事

『ハング 〈ジウ〉サーガ5 』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ハング 〈ジウ〉サーガ5 』誉田 哲也 中公文庫 2024年10月25日 改版発行 Key

記事を読む

『八月の母』(早見和真)_書評という名の読書感想文

『八月の母』早見 和真 角川文庫 2025年6月25日 初版発行 連綿と続く女たちの 「鎖」

記事を読む

『夜の床屋』(沢村浩輔)_書評という名の読書感想文

『夜の床屋』沢村 浩輔 創元推理文庫 2014年6月28日初版 久しぶりに新人作家の、しかも

記事を読む

『そして、海の泡になる』(葉真中顕)_書評という名の読書感想文

『そして、海の泡になる』葉真中 顕 朝日文庫 2023年12月30日 第1刷発行 『ロスト・

記事を読む

『よだかの片想い』(島本理生)_書評という名の読書感想文

『よだかの片想い』島本 理生 集英社文庫 2021年12月28日第6刷 24歳、理

記事を読む

『異邦人(いりびと)』(原田マハ)_書評という名の読書感想文

『異邦人(いりびと)』原田 マハ PHP文芸文庫 2018年3月22日第一刷 たかむら画廊の青年専

記事を読む

『杳子・妻隠』(古井由吉)_書評という名の読書感想文

『杳子・妻隠』古井 由吉 新潮文庫 1979年12月25日発行 古井由吉という名前は、昔から知っ

記事を読む

『四十回のまばたき』(重松清)_書評という名の読書感想文

『四十回のまばたき』重松 清 幻冬舎文庫 2018年7月25日18版 結婚7年目の売れない翻訳家圭

記事を読む

『海を抱いて月に眠る』(深沢潮)_書評という名の読書感想文

『海を抱いて月に眠る』深沢 潮 文春文庫 2021年4月10日第1刷 世代も国境も

記事を読む

『夜が明ける』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『夜が明ける』西 加奈子 新潮文庫 2024年7月1日 発行 5年ぶりの長編小説 2022年

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『未明の砦』(太田愛)_書評という名の読書感想文

『未明の砦』太田 愛 角川文庫 2026年3月25日 初版発行

『月島慕情』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『月島慕情』浅田 次郎 講談社文庫 2026年3月13日 第1刷発行

『黒 石 (ヘイシ) 新宿鮫12』(大沢在昌)_書評という名の読書感想文

『黒 石 (ヘイシ) 新宿鮫12』大沢 在昌 光文社文庫 2026年

『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩)_書評という名の読書感想文

『母という呪縛 娘という牢獄』齊藤 彩 講談社文庫 2026年3月1

『令和元年の人生ゲーム』(麻布競馬場)_書評という名の読書感想文

『令和元年の人生ゲーム』麻布競馬場 文春文庫 2026年3月10日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑