『羊と鋼の森』(宮下奈都)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/10 『羊と鋼の森』(宮下奈都), 作家別(ま行), 宮下奈都, 書評(は行)

『羊と鋼の森』宮下 奈都 文春文庫 2018年2月10日第一刷

高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律に魅せられた外村は、念願の調律師として働き始める。ひたすら音と向き合い、人と向き合う外村。個性豊かな先輩たちや双子の姉妹に囲まれながら、調律の森へと深く分け入っていく - 。一人の青年が成長する姿を温かく静謐な筆致で描いた感動作。2016年本屋大賞受賞作品。(文春文庫)

「羊」の毛で作られたハンマーが「鋼」の弦をたたく - するとそこに、音(ピアノ)が生まれる。

森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
(略)
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。(P7)

物語は、当時高校二年生の外村と江藤楽器に勤める調律師・板鳥が初めて出会う場面から始まります。外村が通う高校の体育館にあるピアノの調律に訪れたのが板鳥で、教師から彼の案内役を頼まれたのが外村でした。

外村は最初、板鳥をピアノの前まで連れていくと、それで帰るつもりでいました。

体育館からつながる廊下に出ようとしたとき、後ろでピアノの音がした。ピアノだ、とわかったのはふりむいてそれを見たからだ。そうでなければ、楽器の音だとは思わなかっただろう。楽器の音というより、何かもっと具体的な形のあるものの立てる音のような、ひどく懐かしい何かを表すもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの。それが聞こえた気がしたのだ。(P10)

板鳥はふりむいた外村にかまわず、ピアノを鳴らし続けます。弾いているのではなく、いくつかの音を点検するみたいに鳴らしています。外村はしばらくその場に立ち、それからピアノのほうへ戻ります。

外村が戻って来ても板鳥は気にしません。鍵盤の前から少し横にずれ、グランドピアノの蓋を開けます。その蓋が、外村には羽のように見えます。板鳥は大きな黒い羽を持ち上げて、支え棒で閉まらないようにしたまま、もう一度鍵盤を叩いたのでした。

そのとき外村は、この大きな黒い楽器を、初めて見たような気がします。

森の匂いがした。秋の、夜の。僕は自分の鞄を床に置き、ピアノの音が少しずつ変わっていくのをそばで見ていた。たぶん二時間余り、時が経つのも忘れて。

秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、晴れた夕方の午後六時頃。町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。(P12)

※残念ながら、外村が(あるいは著者の宮下奈都が)抱く、「ピアノ」と「森」のイメージは私にはわかりません。けれども、魅入られた者からすればそれはその通りなのだろう、というくらいはわからぬではありません。

ピアノの調律に関する記述はどれもが丁寧でわかり易く、為になります。しかし、この小説が真に「為になる」のは、それとは別に、他に理由があるのだと思います。外村という青年は、真面目ではあるものの、必ずしも優秀な調律師ではありません。

江藤楽器に勤める調律師は、全部で四人。外村の面倒を一番よく見る七年先輩の柳、外村と距離を置く四十代の秋野、外村を調律師へと導いた天才肌の板鳥。彼らと外村の距離は、最初途方もなく遠いように感じられます。同じ調律師とはいえ、三人は、外村にはない、技術以外の「何ものか」を持ち合わせています。

彼らとはもとより、さらには、江藤楽器の先からのお得意様である双子の姉妹、姉・和音と妹・由仁との関わりにおいて、やがて外村は先輩達をも凌ぐ「何ものか」を学び取っていく - その(成長の)過程こそ、読まれるべき最大の理由ではないかと。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆宮下 奈都
1967年福井県生まれ。
上智大学文学部哲学科卒業。

作品 「静かな雨」「スコーレNO.4」「遠くの声に耳を澄ませて」「田舎の紳士服店のモデルの妻」「誰かが足りない」「ふたつのしるし」「太陽のパスタ、豆のスープ」他多数

関連記事

『ふたりぐらし』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『ふたりぐらし』桜木 紫乃 新潮文庫 2021年3月1日発行 元映写技師の夫・信好

記事を読む

『舞台』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『舞台』西 加奈子 講談社文庫 2017年1月13日第一刷 太宰治『人間失格』を愛する29歳の葉太

記事を読む

『出身成分』(松岡圭祐)_書評という名の読書感想文

『出身成分』松岡 圭祐 角川文庫 2022年1月25日初版 貴方が北朝鮮に生まれて

記事を読む

『ぼくは悪党になりたい』(笹生陽子)_書評という名の読書感想文

『ぼくは悪党になりたい』笹生 陽子 角川書店 2004年6月30日初版 この小説は、多感な17歳

記事を読む

『不時着する流星たち』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『不時着する流星たち』小川 洋子 角川文庫 2019年6月25日初版 私はな

記事を読む

『ふたり狂い』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『ふたり狂い』真梨 幸子 早川書房 2011年11月15日発行 『殺人鬼フジコの衝動』を手始

記事を読む

『左手首』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『左手首』黒川 博行 新潮社 2002年3月15日発行 表題作の「左手首」を始め、「内会」「

記事を読む

『腐葉土』(望月諒子)_書評という名の読書感想文

『腐葉土』望月 諒子 集英社文庫 2022年7月12日第6刷 『蟻の棲み家』(新潮

記事を読む

『ブラックライダー』(東山彰良)_書評という名の読書感想文_その1

『ブラックライダー』(その1)東山 彰良 新潮文庫 2015年11月1日発行 ここは、地球の歴

記事を読む

『はるか/HAL – CA』(宿野かほる)_書評という名の読書感想文

『はるか/HAL - CA』宿野 かほる 新潮文庫 2021年10月1日発行 「再

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『ケモノの城』(誉田哲也)_書評という名の読書感想文

『ケモノの城』誉田 哲也 双葉文庫 2021年4月20日 第15刷発

『嗤う淑女 二人 』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『嗤う淑女 二人 』中山 七里 実業之日本社文庫 2024年7月20

『闇祓 Yami-Hara』(辻村深月)_書評という名の読書感想文

『闇祓 Yami-Hara』辻村 深月 角川文庫 2024年6月25

『地雷グリコ』(青崎有吾)_書評という名の読書感想文 

『地雷グリコ』青崎 有吾 角川書店 2024年6月20日 8版発行

『アルジャーノンに花束を/新版』(ダニエル・キイス)_書評という名の読書感想文

『アルジャーノンに花束を/新版』ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 ハヤカ

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑