『羊と鋼の森』(宮下奈都)_書評という名の読書感想文

『羊と鋼の森』宮下 奈都 文春文庫 2018年2月10日第一刷


羊と鋼の森 (文春文庫)

高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律に魅せられた外村は、念願の調律師として働き始める。ひたすら音と向き合い、人と向き合う外村。個性豊かな先輩たちや双子の姉妹に囲まれながら、調律の森へと深く分け入っていく - 。一人の青年が成長する姿を温かく静謐な筆致で描いた感動作。2016年本屋大賞受賞作品。(文春文庫)

「羊」の毛で作られたハンマーが「鋼」の弦をたたく - するとそこに、音(ピアノ)が生まれる。

森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
(略)
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。(P7)

物語は、当時高校二年生の外村と江藤楽器に勤める調律師・板鳥が初めて出会う場面から始まります。外村が通う高校の体育館にあるピアノの調律に訪れたのが板鳥で、教師から彼の案内役を頼まれたのが外村でした。

外村は最初、板鳥をピアノの前まで連れていくと、それで帰るつもりでいました。

体育館からつながる廊下に出ようとしたとき、後ろでピアノの音がした。ピアノだ、とわかったのはふりむいてそれを見たからだ。そうでなければ、楽器の音だとは思わなかっただろう。楽器の音というより、何かもっと具体的な形のあるものの立てる音のような、ひどく懐かしい何かを表すもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの。それが聞こえた気がしたのだ。(P10)

板鳥はふりむいた外村にかまわず、ピアノを鳴らし続けます。弾いているのではなく、いくつかの音を点検するみたいに鳴らしています。外村はしばらくその場に立ち、それからピアノのほうへ戻ります。

外村が戻って来ても板鳥は気にしません。鍵盤の前から少し横にずれ、グランドピアノの蓋を開けます。その蓋が、外村には羽のように見えます。板鳥は大きな黒い羽を持ち上げて、支え棒で閉まらないようにしたまま、もう一度鍵盤を叩いたのでした。

そのとき外村は、この大きな黒い楽器を、初めて見たような気がします。

森の匂いがした。秋の、夜の。僕は自分の鞄を床に置き、ピアノの音が少しずつ変わっていくのをそばで見ていた。たぶん二時間余り、時が経つのも忘れて。

秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、晴れた夕方の午後六時頃。町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。(P12)

※残念ながら、外村が(あるいは著者の宮下奈都が)抱く、「ピアノ」と「森」のイメージは私にはわかりません。けれども、魅入られた者からすればそれはその通りなのだろう、というくらいはわからぬではありません。

ピアノの調律に関する記述はどれもが丁寧でわかり易く、為になります。しかし、この小説が真に「為になる」のは、それとは別に、他に理由があるのだと思います。外村という青年は、真面目ではあるものの、必ずしも優秀な調律師ではありません。

江藤楽器に勤める調律師は、全部で四人。外村の面倒を一番よく見る七年先輩の柳、外村と距離を置く四十代の秋野、外村を調律師へと導いた天才肌の板鳥。彼らと外村の距離は、最初途方もなく遠いように感じられます。同じ調律師とはいえ、三人は、外村にはない、技術以外の「何ものか」を持ち合わせています。

彼らとはもとより、さらには、江藤楽器の先からのお得意様である双子の姉妹、姉・和音と妹・由仁との関わりにおいて、やがて外村は先輩達をも凌ぐ「何ものか」を学び取っていく - その(成長の)過程こそ、読まれるべき最大の理由ではないかと。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


羊と鋼の森 (文春文庫)

◆宮下 奈都
1967年福井県生まれ。
上智大学文学部哲学科卒業。

作品 「静かな雨」「スコーレNO.4」「遠くの声に耳を澄ませて」「田舎の紳士服店のモデルの妻」「誰かが足りない」「ふたつのしるし」「太陽のパスタ、豆のスープ」他多数

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