『いちばん悲しい』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『いちばん悲しい』まさき としか 光文社文庫 2019年10月20日初版

ある大雨の夜、冴えない中年男・戸沼暁男が刺殺された。暁男の不倫相手の妄想女・真由奈や残された妻・杏子と子供たちなど交友関係や、家族を巡って真相に迫ろうとする女刑事・薫子だが、一向に進展を見ない。しかし、事件捜査がついに、暴いてはならない秘密をつきとめた。女たちの心の奥底にうずまく毒感情を描ききった、イヤミスを超える傑作、待望の文庫化! (光文社文庫)

初めて聞く名前の作家の、初めて読んだ作品。

(以下は解説より引用)
添えない中年男の刺殺体が発見される場面で、『いちばん悲しい』 の幕が上がる。感情を排した、報道記事のようなプロローグだ。被害者は戸沼暁男。四十二歳の会社員で、妻とふたりの子どもがいる。財布に手がつけられていなかったことと、背後から執拗に刺されていることから怨恨による犯行と思われた。被害者はスマートフォンを二台持っており、そのうち一台にはひとりの女の名前しか登録されていなかった。「痴情のもつれ、とシナリオを浮かべた捜査員は少なくなかった」 という一文でプロローグは締めくくられる。

浮気した男が刺された - といわれれば、読者もまた、刺したのは裏切りに怒った妻か、騙されたと気づいた浮気相手かと想像するだろう。実際に殺すまでにはいかなくても、その手のトラブルは食傷してしまうほど多く、つまりは 〈ありふれた事件〉 である。

だがまさきとしかは、その 〈ありふれた事件〉 の関係者ひとりひとりの事情と思いを丹念に描き出していく。浮気相手だった佐藤真由奈は、戸沼が既婚者であったことも本当の名前すらも知らなかった。偽名を使っていた自分の婚約者と戸沼が同一人物だとわかってからは、いかに自分の方が愛されていたかをうるさいほどに主張し、妻が殺したに違いないと言い張る。

一方、妻の杏子は茫然自失。夫に対する興味はとっくに失っていたが、浮気をする 〈甲斐性〉 が夫にあるとは思っていなかったのだ。さらに経済的なことや子どもたちへの心配もあるし、杏子のせいにする姑にも煩わされる。

まず読者は 戸沼を殺したのは誰だというミステリ的な興味でページをめくるだろう。だがすぐに興味の矛先が変わるはずだ。なぜなら真由奈と杏子、そして事件を捜査する刑事の我城薫子という三人の女性の描写が圧巻なのである。

本書を読んでいくうちに、本妻とか浮気相手とか被害者の家族といった関係者の名称ではなく、真由奈、杏子といった個人 が見えてくる。彼女たちが抱えてきた悲しみが、虚無が、足掻きが、見えてくる。陳腐な表現だが、誰もがその人だけの物語を持っている、ということを痛感させられる。ひとりひとりの物語が眼前に広がったとき、そこにあるのは 唯一無二の彼女の事件であり、決して十把一絡げの ありふれた事件 などではないことがわかるのである。(文庫の帯文より)

真由奈や杏子と同様 「わたしがいちばん悲しい」 「わたしがいちばんかわいそうなのに」と思う人物が、他に何人も登場してきます。

それらの人物は、真由奈や杏子とは別に、まるで違う世界で暮らしています。殺害された戸沼とは基本 “無関係” な関係で、たとえ偶然知り合ったとしても、戸沼は戸沼として認識されず、そこにいる大勢の中の一人に過ぎません。

本来、戸沼には殺される理由などなかったのです。

※この物語において、唯一、「わたしがいちばん悲しい」 とは言わない人物がいます。彼女は辛い過去をひきずりながら日々を過ごしています。願ったものにはほど遠く、見た目以上に歪な人生を送っています。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆まさき としか
1965年東京都生まれ。北海道札幌市育ち。

作品 「夜の空の星の」「熊金家のひとり娘」「完璧な母親」「途上なやつら」「きわこのこと」「ゆりかごに聞く」「屑の結晶」等

関連記事

『大阪』(岸政彦 柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『大阪』岸政彦 柴崎友香 河出書房新社 2021年1月30日初版発行 大阪に来た人

記事を読む

『グ、ア、ム』(本谷有希子)_書評という名の読書感想文

『グ、ア、ム』本谷 有希子 新潮文庫 2011年7月1日発行 北陸育ちの姉妹。長女は大学を出た

記事を読む

『男ともだち』(千早茜)_書評という名の読書感想文

『男ともだち』千早 茜 文春文庫 2017年3月10日第一刷 29歳のイラストレーター神名葵は関係

記事を読む

『悪の血』(草凪優)_書評という名の読書感想文

『悪の血』草凪 優 祥伝社文庫 2020年4月20日初版 和翔は十三歳の時に母親を

記事を読む

『赤い部屋異聞』(法月綸太郎)_書評という名の読書感想文

『赤い部屋異聞』法月 綸太郎 角川文庫 2023年5月25日初版発行 ミステリ界随

記事を読む

『あなたが消えた夜に』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『あなたが消えた夜に』中村 文則 朝日文庫 2018年11月15日発行 連続通り魔殺人事件の容疑者

記事を読む

『告白』(湊かなえ)_書評という名の読書感想文

『告白』湊 かなえ 双葉文庫 2010年4月11日第一刷 「愛美は死にました。しかし、事故ではあり

記事を読む

『村上龍映画小説集』(村上龍)_書評という名の読書感想文

『村上龍映画小説集』村上 龍 講談社 1995年6月30日第一刷 この小説は『69 sixt

記事を読む

『沈黙の町で』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『沈黙の町で』奥田 英朗 朝日新聞出版 2013年2月28日第一刷 川崎市の多摩川河川敷で、

記事を読む

『ifの悲劇』(浦賀和宏)_書評という名の読書感想文

『ifの悲劇』浦賀 和宏 角川文庫 2017年4月25日初版 小説家の加納は、愛する妹の自殺に疑惑

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『滅私』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文

『滅私』羽田 圭介 新潮文庫 2024年8月1日 発行 「楽っ

『あめりかむら』(石田千)_書評という名の読書感想文

『あめりかむら』石田 千 新潮文庫 2024年8月1日 発行

『インドラネット』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『インドラネット』桐野 夏生 角川文庫 2024年7月25日 初版発

『ブルース Red 』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『ブルース Red 』桜木 紫乃 文春文庫 2024年8月10日 第

『境界線』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『境界線』中山 七里 宝島社文庫 2024年8月19日 第1刷発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑