『綴られる愛人』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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『綴られる愛人』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(た行)
『綴られる愛人』井上 荒野 集英社文庫 2019年4月25日第1刷
夫に支配される人気作家・柚。先が見えない三流大学三回生の航大。二人はひょんなことから 「綴り人の会」 というサイトを介して、文通をはじめる。柚は 「夫にDVを受けている専業主婦」 を装い、航大は 「エリート商社マン」 だと偽って - 。便箋の上に書かれた偽りが、いつしか真実を孕んで、二人をくるわせていく。掻き立てられた情動が、やがて越えてはならない一線を踏み越えさせて・・・・・・・。緊迫の恋愛サスペンス! (集英社文庫)
この小説は、「名前 (本名) も住所も顔も知らない文通相手の女性から夫の殺害を仄めかされ、結果それを実行してしまうことになる、ある青年の物語」 です。女性は自分を 「凛子」 と名乗り、青年は 「クモオ」 と名乗ります。
凛子は 「東京在住、二十八歳の専業主婦」。クモオは 「金沢の貿易会社に勤める三十五歳の独身エリートサラリーマン」。だがそれはあくまで文通用の自己申告で、凛子の正体は 「三十五歳の著名な児童文学作家」 の天谷柚だし、クモオの正体は 「富山県魚津市に住む二十一歳の大学生」 の森航大である。この二人が 「綴り人の会」 なる会に登録し、文通をはじめたのが、そもそもの発端であった。
自分も正体を偽っているのだから、相手だって偽物かもしれない。それくらいは二人も承知の上である。当初は柚も航大も、互いの文面を半ば鼻白む思いで読んでいた。それがなぜ、短期間で疑似恋愛のような形にまで発展したのか。
クモオ (航大) が凛子 (柚) の自己紹介に応じて最初の手紙を送ったのは八月。〈クモオさん。/会いたい。/会いたい。/会いたい。〉 と凛子 (柚) が訴え、クモオ (航大) が 〈僕は凛子さんに恋をしています〉 と告白したのが十一月。時間にすれば三ヶ月だけれども、「綴り人の会」 から手紙が転送されてるのは月に二回。たったそれだけのやりとりで、相手の何がわかるのか。その前に、人はそもそも文字情報だけで見知らぬ相手に恋愛感情を抱くことができるのだろうか?
さあそこが、手紙の怖いところである。(解説より by斎藤美奈子)
例えば、それが憎からず思う同士の、異性とのやり取りだったとしたらどうでしょう?
書いた手紙が相手に届き、相手がそれを読み、返事を書いて投函し、その手紙が届くまでの間のもどかしく甘やかな気持ち。(一度や二度は) きっとそんなことがあったはずです。
封筒や便箋、インクの色までをも矯めつ眇めつ眺めては、思わず匂ってみたりはしなかったでしょうか? すぐに読むのがもったいなくもあり、読めば読んだで、書かれた内容よりもむしろ言外にある本心こそを知りたいと、深読みや要らぬ妄想を繰り返してはいなかったでしょうか。
データだけのやりとりにはない独自の手触り感をともなった書き手の分身、それが手紙ってやつなのだ。
柚と航大は、この罠にはまった。恐ろしく時間がかかり、情報量は限られており、しかも相手の素性すら知らない。負の要素だらけの通信手段。それでも、だからこそ、彼らは恋に落ちた。あるいは恋に似た感情に足元をすくわれた。(同上)
当初、互いに “疑心暗鬼” の塊でしかなかったものが、回を重ねる毎にまるで違う “関係” へと変化を遂げる - 「手紙」 がふたりを狂わせていく - その過程をこそじっくりと味わってください。
やがて柚は、全身全霊で 「凛子」 を演じるようになり、航大は激しくその 「凛子」 にのめり込むようになります。搦め捕られてしまいます。
ただ、柚にとって唯一誤算だったのは、航大が思った以上に若かった、ということです。まさか二十一歳の大学生とは思わなかった - それが思わぬ事態を招くことになります。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「潤一」「虫娘」「ほろびぬ姫」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「ママがやった」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」「あちらにいる鬼」他多数
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