『グラジオラスの耳』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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『グラジオラスの耳』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(か行)
『グラジオラスの耳』井上 荒野 光文社文庫 2003年1月20日初版
単行本の刊行は1991年5月、井上荒野の第1創作集です。表題作「グラジオラスの耳」の他、「暗い花柄」「わたしのヌレエフ」「楽天ちゃん追悼」「ビストロ・チェリイの蟹」といった作品が収められています。
その中でも特に私が読みたかったのが「わたしのヌレエフ」という短編で、これは1989年、『季刊フェミナ』の創刊号に掲載された、第1回フェミナ賞受賞作品です。
選考委員の一人、大庭みな子氏の選評はこうです。
「わたしのヌレエフ」の文学的感性は見逃せない。作者井上さんは、小説以外では表現しにくい微妙なものを汲み上げる力がある人のように思える。難なく上手い作品というのではなく、文学的気負いもある。妙に生々しく若い肌の匂いがまといつく場面が鮮やかである。
早々に井上荒野にある生来の文学的感性を見抜き、「妙に生々しく若い肌の匂いがまといつく場面が鮮やか」とは実に的を得た評で、以来今日に至るまでの彼女の作品をすべからく予見しているようでみごとという他ありません。
その、「わたしのヌレエフ」から -
夏子の不倫相手、彼女が通う太極拳教室のインストラクター・南と二人して、彼女がこの夏着る水着を選ぼうと、待ち合わせた喫茶店と同じビルにあるスポーツ用品売り場へ行ったときの話。
〈マーメイド・フェア〉と銘打った極彩色の垂れ幕がいくつも下がった水着売り場で、夏子はまず三着の水着を選び出します。一つは真っ白なワンピース、二番目は黒地に白い小さな花柄、三番目はオレンジ色のニットで、細かい縄編みがいくつも入っています。
黒いのがいいな、と南は言います。忙しそうな女店員に手振りだけで示された、にわか作りらしい薄いベニア板の更衣室で夏子は服を脱ぎます。入りくんだ壁に遮られた薄暗い照明の下でさえも去年の日焼けのあとははっきりと鏡に映ります。白い小花模様の水着は、それとほぼぴったりと重なります。
「格好いいじゃない、なかなか」
「やっぱりこれがいいみたい」
少し離れたところで腕組みする南を、夏子は手を振って呼んだ。肩紐をずらして見せる本当の意味など、彼にはとうていわからぬだろう。(作中より抜粋)
おそらく、夏子が考えるように南は何ほどのことも思ってはいないのでしょう。付き合ってまだ間もない頃ならまだしも、逢瀬を重ね、その上中絶手術の直後などであったとしたら、南は南で、夏子もまた夏子で、それまでとは違うふうにしか互いを見られなくなった後の日のことです。
「肩紐をずらして見せる」ことの意味がどうであるかを言いたいのではなく、伝えたいのは夏子がその時確かにそう思ったということ - 特別な男を間近にして肌身を晒して見せるような状況にありながら、既に心は乾いたなりで遠く離れてしまっているということ、
その様子をして、決してそうではないのに、井上荒野はおよそ大したことではないように言って退けます。そのさり気のなさにこそ感応し、匂い立つ色香を感じるのだと思います。
ついでに言うと、この小説の書き出しがとても気に入っています。
妙な話だが、それははじめて海を見たときの記憶とどうしても重なる気がした。五歳の夏の日、公団住宅B号棟の最上階へ行く階段に夏子を連れこんで太腿の間に手を差し入れてきた男は、昨日中国から帰ってきたばかりだと言った。中国へ猿を買いに行っていたというのだった。
こんなふうに始まる物語は、中国から帰ってきたばかりの男とはまるで関係なしに進んでゆきます。しかしそれは読んだからこそ分かることで、まだ先を知らない読者なら次に何があるかがきっと知りたくなるはずです。こんなふうに書かれて読まないでおく方がどうかしている - そうは思えないでしょうか?
この本を読んでみてください係数 85/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「しかたのない水」「切羽へ」「夜を着る」「雉猫心中」「結婚」他多数
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