『失はれる物語』(乙一)_書評という名の読書感想文
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『失はれる物語』(乙一), 乙一, 作家別(あ行), 書評(あ行)
『失はれる物語』乙一 角川文庫 2006年6月25日初版
目覚めると、私は闇の中にいた。交通事故により全身不随のうえ音も視覚も、五感の全てを奪われていたのだ。残ったのは右腕の皮膚感覚のみ。ピアニストの妻はその腕を鍵盤に見立て、日日の想いを演奏で伝えることを思いつく。それは、永劫の囚人となった私の唯一の救いとなるが・・・・・・・。表題作のほか、「Calling You」「傷」など傑作短篇5作とリリカルな怪作「ボクの賢いパンツくん」、書き下ろし「ウソカノ」の2作を初収録。(角川文庫)
【ウソカノ】(目次には「あとがきにかえて」とあります)
ある朝、僕は電車の中で彼女と知り合います。彼女の名前は安藤夏。あるトラブルをきっかけに、僕は彼女とつき合うことになります。
放課後、「時間だ。そろそろ帰るよ」「彼女と待ち合わせしてるんだ」と言うと、クラスの友人たちはひどく驚いた顔をします。
おまえ、つきあってるやつがいたのか、と訊くので、「うん。他の高校の生徒。いつも帰り道で落ち合うことにしてる」 と答えます。
僕はクラスメイトたちに、安藤夏と出会ってつきあうまでの経緯を説明した。さらに趣味やら好物やらを教えた。彼女の趣味はギターを弾くこと。何度か彼女の演奏を聴いた。(中略)彼女の好物はミスタードーナツのホームカット。それからあんパン。
じゃあな、しっかりやれよ。
教室を出るとき友人たちからそう声をかけられ、学校を後にした僕は、どこにも立ち寄らずに家に帰ってアニメを見ます。今日から始まる新番組で、見終わると次はゲームをやり、漫画を読んでいるうちに夜になったので寝ることにします。- 何がどうなっているのかと言いますと、
安藤夏と会って話なんてするわけがない。彼女などいない。あれは作り話だ。- ということ。
新番組のアニメが見たいばかりに、まさかそんなことで帰りたいとは言い出せず、思わずついてしまった嘘だったのですが、あろうことか、クラスのみんなはそれを信じて疑いません。僕はその日以降、自分にも彼女がいるんだぜという嘘をつき続けるはめになります。
嘘だとばれたら僕の人生はおしまいで、ひどくいじめられるかもしれません。不安に怯える日々を送っていたある日、クラスメイトの一人である池田君に、嘘がとうとうばれてしまいます。
「ぴんと来た。きみ、嘘ついてる。安藤夏なんていないだろ」 ある時池田君は階段の踊り場で僕を指さしてそう言ったのです。そして、続けて 「俺もなんだ。だからぴんと来たんだ。俺の舞ちゃんもウソカノなんだ」 と、思いもしないを言い出します。
池田君というのは、ひそかにナメクジというあだ名がつけられている男子生徒です。いつも汗ばんでおり、女子からはとても嫌われています。ところが、彼には女子大生の恋人がいる、ということになっており、それが為に池田君はみんなから一目置かれてもいます。
いまさら本当のことなど言えるわけがありません。二人は協力し合ってお互いの嘘をカバーしようと躍起になります。町中で互いの彼女に会ったと言いふらし、彼女のふりをして互いの携帯に電話を入れたりします。
さらに、より彼女たちのディテールを強めるため、僕は安藤夏の趣味であるギターを買って猛練習し、池田君は池田君で、テニスの得意な忍羽舞(舞ちゃんのフルネーム)の気持ちを理解しようと、手にマメを作ってまで練習に励みます。
ある日、二人は隣町にある貯水ダムに行きます。そこは池田君が忍羽舞とドライブでよく行く場所でした。「そうそう彼女はここでいつも深呼吸するんだ。こんなふうに」 広大なダムを見下ろせる場所に立ち、池田君は繰り返し深呼吸をします。
はじめは口数も多かった池田君が、そのうち段々と無口になります。二人はコンクリートの段差に腰掛けます。そして池田君がぽつりとつぶやきます。「いないんだよ、舞ちゃんなんて」「知ってるさ。嘘だもの」と僕。二人はそんな会話を交わします。
池田君の嘘がばれたのは、その翌日のことです。彼は大いに蔑まれ、馬鹿にされます。それを見て僕はいっとき、池田君を避けるようになります。それでも池田君は、僕と安藤夏のことを誰にも言いません。二人はその後もずっと友達でいます。
そして1年も経たない頃、池田君にはじめて本当の彼女ができます。その頃、僕は既に安藤夏とは会えなくなっています。その後二人は成人し、あのころ自分たちは馬鹿で間抜けだったと振り返るのですが、実は二人は、そこでかけがえのない経験をしています。
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◆乙一
1978年福岡県生まれ。本名は安達寛高。
豊橋技術科学大学工学部卒業。
作品 「失踪 HOLIDAY」「銃とチョコレート」「夏と花火と私の死体」「GOTH リストカット事件」「暗いところで待ち合わせ」「ZOO」「箱庭図書館」「死にぞこないの青」他多数
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