『永い言い訳』(西川美和)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『永い言い訳』(西川美和), 作家別(な行), 書評(な行), 西川美和

『永い言い訳』西川 美和 文芸春秋 2015年2月25日第一刷

長年連れ添った妻・夏子を突然のバス事故で失った、人気作家の津村啓。悲しさを〈演じる〉ことしかできなかった津村は、同じ事故で母親を失った一家と出会い、はじめて夏子と向き合い始めるが・・・。突然家族を失った者たちは、どのように人生を取り戻すのか。人間の関係の幸福と不確かさを描いた感動の物語。(「BOOK」データベースより)

偶然ですが、本年度上半期の直木賞候補になった2つの小説を続けて読みました。受賞作の『流』(著者:東山彰良)をまず読んで、1冊間に挟んで次に読んだのがこの小説です。

白状すると、私は今、ちょっと腑抜けになっています。できればこんな感想を書くのは後回しにして、しばらくぼうっとしていたい、そんな感じでいます。『永い言い訳』という小説を読んで、久方ぶりにそんな気分になりました。

西川美和という人が書く文章には、気品があります。知的で、節操を弁えた文章とでも言えばいいのでしょうか。かと言って堅苦しいわけではなくて、いたって文章は平易、滑らか過ぎるほどに滑らかです。その上で一々の描写が正鵠を得ており、唸ることしきりです。

この小説は、他人の子供と過ごす日常を通して、人気作家である主人公の津村が内なる葛藤と向き合い、彼が生来持ち得なかった感情、それこそが唯一彼の生き様から欠落していたある大きな感情に気付いて、死んでしまった妻に初めて涙する物語です。

津村と夏子は2人暮らし、彼らには子供がいません。本意かどうかは別にして、少なくとも二人は合意の上で子供を作らないでいます。津村はテレビCMにも起用される端正な顔立ちの、今を盛りの人気作家です。夏子は、自分の夢だった美容院を経営しています。

大宮ゆきは夏子の学生来の友人で、彼女には2人の子供、11歳の真平と4歳になる灯(あかり)がいます。夫の陽一は9歳年下で、長距離トラックの運転手をしています。ゆきにとって、陽一は2人目の夫です。

夏子は度々大宮家を訪れてはバーベキューなどをするような関係で、ゆきだけではなく、陽一や真平、灯でさえも夏子の夫である啓のことを知っています。大宮家で話す夏子の話の大半は、夫である啓のことです。但し、「津村啓」はペンネームで、本名は「衣笠幸夫」。夏子の夫は、大宮家では「幸夫くん」と呼ばれています。
・・・・・・・・・・
さて、不幸な事故はこのような状況の中で起こります。全く違う環境で暮らす2組の夫婦の妻が同時に亡くなり、大宮家の幼い子供たちにしてみれば、唯一無二の母親を失くしてしまうことになります。

津村啓、元へ、衣笠幸夫の可笑しくも切ない〈主夫劇〉は、こうして幕を開けることになります。長距離トラックの運転手として家を空けることが多い陽一にとって、仕事を続けながら子育てをするのは土台無理なことです。その陽一を、「幸夫くん」が助けることになります。

幸夫は、ほとんど大宮家のことを知りません。彼にとっては亡き妻の友人の家だというだけで、知ろうとも、知りたいとも思わなかった存在です。幸夫は家事をしたことがありません。ましてや、幼い子供の扱い方などというものは、知るはずもないのです。

ところが、ここからが読ませます。心が震えて、何度も、何度も泣きそうになります。幸夫の奮闘ぶりが、それはそれはみごとです。子供に対する、無私で、損得勘定一切なしの献身ぶりは、さながら死んでしまった母親のゆきが乗り移ったようでもあります。

そう感じるほどに、真平と灯、2人の子供の健気さや、子供に対する愛おしさが事細かに描写されます。例えばこんな場面があります。幸夫が、残された大宮家の家族と知り合ってまだ間もない頃の話です。

真平が塾から帰るのを、幸夫はバス停ヘ迎えに行こうとしています。母親がいた頃はいつも灯が一緒だったと聞いていた幸夫は、起きぬけの灯を誘うと、彼女も行くと言います。4歳の子供と2人きりで夜道を歩くなどということは、幸夫には初めてのことです。

灯は懸命にすたすた歩き、幸夫には歩調を合わせないようにしている様子です。女ってこんな頃から気が強いんだ、と幸夫は思います。灯に左手を差し出してみます。初めて女の人とつき合った時だって、こんなに緊張しなかった、などと幸夫は思っています。

幸夫の左手はしばらく無視されて空を切っています。「灯ちゃん」と、思いきってその肩を指先で触れると、あたかも当然そうするつもりだったかのように、彼女は右手を幸夫の手のひらの中に滑り込ませて来たのです。

まるで羽毛を握っているようなやわらかさ。手のひらの温度だけで溶けてなくなってしまいそうで、力の加減が分からない。

そのとき、幸夫はこんな風に思います。そして私は、こんなことに涙するのです。

この本を読んでみてください係数 90/100


◆西川 美和
1974年広島県広島市安佐南区生まれ。
早稲田大学第一文学部美術史学専修卒業。映画監督、脚本家。

作品 「蛇イチゴ」「ゆれる」「ユメ十夜」「ディア・ドクター」「そして父になる」「きのうの神さま」他

関連記事

『やさしい猫』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『やさしい猫』中島 京子 中央公論新社 2023年5月30日8版発行 吉川英治文学

記事を読む

『眠れない夜は体を脱いで』(彩瀬まる)_書評という名の読書感想文

『眠れない夜は体を脱いで』彩瀬 まる 中公文庫 2020年10月25日初版 自分の

記事を読む

『魔女は甦る』(中山七里)_そして、誰も救われない。

『魔女は甦る』中山 七里 幻冬舎文庫 2018年7月25日5版 元薬物研究員が勤務

記事を読む

『悪徳の輪舞曲(ロンド)』(中山七里)_シリーズ最高傑作を見逃すな!

『悪徳の輪舞曲(ロンド)』中山 七里 講談社文庫 2019年11月14日第1刷 報

記事を読む

『阿弥陀堂だより』(南木佳士)_書評という名の読書感想文

『阿弥陀堂だより』南木 佳士 文春文庫 2002年8月10日第一刷 作家としての行き詰まりを感じて

記事を読む

『ねこまたのおばばと物の怪たち』(香月日輪)_書評という名の読書感想文

『ねこまたのおばばと物の怪たち』香月 日輪 角川文庫 2014年12月25日初版 「人にはそれぞれ

記事を読む

『何もかも憂鬱な夜に』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『何もかも憂鬱な夜に』中村 文則 集英社文庫 2012年2月25日第一刷 施設で育った刑務官の

記事を読む

『護られなかった者たちへ』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『護られなかった者たちへ』中山 七里 宝島社文庫 2021年8月4日第1刷 連続

記事を読む

『円卓』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『円卓』西 加奈子 文春文庫 2013年10月10日第一刷 直木賞の『サラバ!』を読む前に、

記事を読む

『私は存在が空気』(中田永一)_書評という名の読書感想文

『私は存在が空気』中田 永一 祥伝社文庫 2018年12月20日初版 ある理由から

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『地雷グリコ』(青崎有吾)_書評という名の読書感想文 

『地雷グリコ』青崎 有吾 角川書店 2024年6月20日 8版発行

『アルジャーノンに花束を/新版』(ダニエル・キイス)_書評という名の読書感想文

『アルジャーノンに花束を/新版』ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 ハヤカ

『水たまりで息をする』(高瀬隼子)_書評という名の読書感想文

『水たまりで息をする』高瀬 隼子 集英社文庫 2024年5月30日

『黒牢城』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『黒牢城』米澤 穂信 角川文庫 2024年6月25日 初版発行

『消された一家/北九州・連続監禁殺人事件』(豊田正義)_書評という名の読書感想文

『消された一家/北九州・連続監禁殺人事件』豊田 正義 新潮文庫 20

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑