『太陽は気を失う』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『太陽は気を失う』(乙川優三郎), 乙川優三郎, 作家別(あ行), 書評(た行)

『太陽は気を失う』乙川 優三郎 文芸春秋 2015年7月5日第一刷

人は(多かれ少なかれ)こんな思いに駆られ、老いさらばえてやがて骸となる。自分がそうなる前に読めてよかった。そう思える本です。

生死を分けたあの時間、男女が終わった瞬間、人生で最も大きな後悔と向き合う最後の時・・・・・・・。人生の分岐点を端整な文章で切り取った、十四の芳醇な現代短編。(「BOOK」データベースより)

太陽は気を失う
常磐線が大津港から北へ県境を越えて間もない小さな駅の近くに細い川の流れがあって、土手の道を歩いてゆくと海であった。途中に百年は持つと言われた実家があり、海辺には発電所と墓地があった。私の帰郷の目的はひとり暮らしの老母を見舞い、一月前に亡くなった知人の墓へ参ることであった。

昔見た風景などを思い出し、私は今ある自分を思います - あの頃から五十年は生きていろいろあったが、これが人生かと思うくらいで中身はまるで成長していない。

少しばかり英語ができて、和食より洋食が好きなペーパードライバーのおばさんが手弁当でのこのこ帰郷したというだけで、この川に飛び込んだって死ねやしない。母はお金を貸してくれるだろうか。

実家は土手の道から横へ一跨ぎの川べりにあります。敷地は土手より低く、なぜこんなところにこんな不便な家を建てたのかと思うような広さをしています。

母の信子は娘の声を聞いてももはや出迎える体力はなく、あっても決して動こうとしません。年毎に頑固になり、愚かな娘より先に死なないために生きている。そんなことを言います。

たしかに私は愚かだ。新聞は隅から隅まで読まなければ気がすまないし、人にも人並み以上に親切にするが、男を見る目がない。なぜあんな最低の男を好きになり結婚までしたのか、と友人によく言われる。私もこのごろそう思うようになった。

家に上がって、まだ十五分くらいしか経っていません。何か食べたいものがあるかと訊くと、あれやこれやを言うので、私は買物リストを作ります。母の年の、田舎暮らしの孤独な女は言い出すと切りがありません。

私は出かける用意をします。自分のリュックを空にし、お茶を啜り、買物リストをポケットに入れます。

そのとき、家が揺れたのでした。突然に。私も揺れます。むろん床も揺れます。柱や天井が悲鳴をあげて、棚から物が落ちてきます。稲光のように先月のクライストチャーチの地震が脳裡を掠めて、

「崩れる、外へ出よう」と、私は言います。「大丈夫、大丈夫」母は根拠もなく繰り返します。しかし間もなく家が傾ぎます。聞いたこともない恐ろしい音が頭上で響き、目の前を物が飛び交い、しがみついていたテーブルが浮きます。

壁が崩れ、柱の割れる音でようやく母は動き出します。どうにかして外へ出ると、電柱がまるでゴム製のようにゆさゆさと揺れているのがわかります。火力発電所の煙突から見たこともない黒煙が上がり、遠くの工場のあたりの空が灰色になるのが見えます。

すぐそばの土手の亀裂に気づいて道路や橋を見ると、やはりひび割れています。余震とも思えない大きな揺れが続き、やがて警察官が橋に通行止めの標識を置いたのですが、次々と来る車はかまわずに通ってゆきます。

母の表情は凍りついて、何も言いません。そのうち空が暗くなってきます。汗を掻き、喘いでいるのに寒い。川には黒い水が土手の高さまで迫っています。しかも全く音がしません。不気味で、あんな汚い水に呑まれて死にたくないと思います。

寒いのは霙のせいだとわかります。しかしなぜこんなときに降るのだろう。太陽が見えない。かわりに自衛隊の飛行機が超低空飛行で北へ向かうのが見えます。北に何があるのだろう。もうすぐ津波に呑まれそうな人たちが真下にいるというのに、見殺しにするのだろうか。

やっとバイパスに辿り着いて喘いでいたとき、発電所の方角から黒い津波が住宅地を呑み込んでいきます。私には世界の終わりに思えます。たちまち真っ黒な雲が垂れ込め、雪も降ってきます。それはやはり世界の終わりのような暗さをしています。

幸いにも私と母は隣人に助けられ、近くの介護老人病院に避難することができました。そこはコンクリートの三階建てなのですが、津波に窓を破られたら終わりのような気もします。それでも他よりは安全であるに違いありません。

母の寝床を作り、携帯電話で(私が暮らす)逗子の家にかけてみたのですが、繋がりません。テレビを観ると石巻の街と千葉のコンビナートの火災を映し出しています。そのとき私は地震が福島の沿岸だけではないのだと、ようやくにして気づきます。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「生きる」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」「トワイライトシャッフル」「ロゴスの市」他多数

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