『すべて真夜中の恋人たち』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『すべて真夜中の恋人たち』川上 未映子 講談社文庫 2014年10月15日第一刷

わたしは三束さんのことがすきだった。たぶん、はじめて会ったときからわたしは三束さんのことがすきだった。そうはっきりと言葉にしてしまうと、わたしは椅子に座っていることができないくらいに苦しくなり、机に突っ伏して顔を腕のなかに入れて目をつむった。
わたしは三束さんがすき。小さな声でそう言ってみた。よろよろとかすれて頼りないその声は、しばらく耳のなかに留まってからすぐに消えていった。(作中より)

主人公の冬子が、心に留め置いた気持ちを初めて吐露するシーンです。文庫では350ページある長編の、実に273ページ目のことです。冬子は、臆病すぎるくらい臆病な女性です。

人付き合いが苦手で、一人があたり前のようにして暮らしています。彼女はフリーの校閲者ですが、そうなったのは決して積極的な理由があったからではありません。元々彼女は小さな出版社の社員で、校閲の担当者として働いていました。

職場に居づらくなった時期に、たまたまフリーになることを勧めてくれる人がいて、誰とも会わず、一日中部屋に籠って仕事ができる - それが何よりも魅力に思えたのでフリーになったまでのことです。生活が叶うなら、彼女にはそれ以上望むことがなかったのです。

冬子が仕事を受ける窓口になるのが、石川聖という大手出版社の校閲局に勤めるやり手の女性です。冬子と聖は同い年、同じ長野の出身です。仕事がきっかけで2人は親しい仲になり、聖はやがて冬子にとって唯一の友人と呼べる女性になります。

冬子は、34歳。もちろん独身です。高校生の頃に(不本意な形ではあったものの)初体験を済ませているのですが、それ以後はただの一度もセックスをしたことがありません。彼女は、ずっと一人で生きています。

そんな冬子が、ある日カルチャーセンターで初老の男性と知り合います。男性は三束(みつつか)という名前で、年齢は58歳。高校で物理の教師をしていると言います。冬子は三束がする〈光の話〉に魅せられて、彼が決まって立寄る喫茶店に通うようになります。

2人の関係は、互いが初めて異性と言葉を交わすような、ぎこちない空気のなかで始まっていきます。会話はいつも途切れ途切れで、とりとめがありません。冬子はぽつりぽつりと脈絡のない問いかけを繰り返し、その度に三束は短い返事を繰り返します。

光の話に興味を持った冬子に対して、三束は一冊の本を差し出します。ぜひこの音楽を聴いてくれと、ショパンのアルバムを渡します。アルバムの中で一番気に入っている曲がまるで光のイメージそのものなのだと言い、恥ずかしそうに渡すのです。
・・・・・・・・・・
ここに登場する人物は、誰もが孤独です。言い知れぬ孤独を抱えて、時には自分のあるべき姿を隠し、時に自分を見失っているかのようにも思えます。

しかし、それは何も特別なことではありません。おそらく人なら誰もが経験し、誰もが晒される現実です。行く先の見えない絶望を抱えきれないほど抱えて、折れそうになる心を必死に堪えて生きている人間は、そこにも、ここにもいるのです。

逃れ難い現実ではあるのですが、しかしその一方で、それらの人々が抱える孤独や絶望からくる心の痛みを拭い去ってくれる「何か」がきっとあるはずだ、という思い。その思いを信じるが故に、この物語は書かれたのではないかと思います。

でなければ、「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろう」と思い、「誕生日に真夜中のまちを散歩する」ことが唯一の趣味だという冬子は、あまりに不幸です。

有能で、言いたいことを言い、おまけに美人で目立つ聖は、さんざん男と寝た挙句にシングルマザーになることを決心します。冬子とはまるで正反対ですが、聖が幸せかと言うと決してそんな風には見えません。

冬子が恋をする三束は、いかにも教師然とした紳士です。年の割には控え目で、やや朴訥に過ぎるくらいの男性です。しかし、どうかするとその真摯さの裏にある、彼自身が抱える孤独を思わずにはいられません。三束は、たとえば冬子にしか見えない虚像のような、何とも現実味を欠いた男性です。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆川上 未映子
1976年大阪府大阪市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部哲学科在学中。

作品 「わたくし率 イン 歯-、または世界」「ヘヴン」「乳と卵」「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「愛の夢とか」「安心毛布」他

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