『犯罪調書』(井上ひさし)_書評という名の読書感想文
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『犯罪調書』(井上ひさし), 井上ひさし, 作家別(あ行), 書評(は行)
『犯罪調書』井上 ひさし 中公文庫 2020年9月25日初版
白い下半身を剥き出しにした娘が横たわっている。麻酔薬を嗅がされているらしく身動きひとつしない。娘の、高く盛り上がった胸が皮鞴のように規則正しくゆっくりとせり上がり沈み込む。と、思いつめた目をした中年男が冷たく光る鋭利な刃物を握りしめ、娘の下腹部へ顔を近づけて行き、ぐさりとその刃物を突き立てた・・・・・・・。
殺人か。そうではない、帝王切開がこれから始まるのである。つまり舞台がなによりも大事だ。背景がものをいう。舞台をぼかしねじ曲げれば手術でさえもおどろおどろしいものになる。背景がつまらないと連続大量殺人も四十匹のゴキブリが貼りついて死んでいる、一個のホイホイ箱にかなわない。ドラキュラ伯爵もルーマニアのカルパチア山脈の山城に住んでいるから様子がいいので、浅草の花屋敷の住人だったら子どもにサインをねだられるくらいがせいぜいのところだろう。
「犯罪調書」 の記録方としては、そのようなわけで、毎回、舞台と背景の説明に悪凝りしなければならない。(第一話 「煉歯磨殺人事件」 より)
本作 『犯罪調書』 には、国内外を問わず、過去に起こった二十件もの 「凶悪犯罪」 が収録されています。そのいずれもが、著者の井上ひさしが興味を抱いた上に、独自の視点でもって事件の背景や時代との因果関係などを解き明かしており出色です。
例えば、新聞の結婚案内を利用した連続殺人事件、エリート官僚が起こした本邦初のバラバラ殺人事件などを取り上げ、鋭い人間観察と心理描写で事件の核心に迫ります。
但し、(言うまでもなく) これは単なる “事例集” ではありません。事件の中身もさることながら、ユーモア混じりに語られる著者ならではの “見解” が突出しています。
(例) 農商務省のエリート官僚が起こした本邦初の 「信濃川バラバラ事件」 の場合
人を殺害して後、死体をいくつにも切断の上、行李やトランクに詰めて川や海へ流し、山に埋め、あるいはコンクリートで固めて放置するやり方、いわゆるバラバラ事件がこの国ではいつごろから行われるようになったのか大いに興味がある。
かっとなって逆上し、その上、酒でも入っていたら、あまり度胸があるとはいえない自分にも殺人は可能だろう。現に、かつてわたしは家人や数人のディレクターや若干名の編集者や三人ぐらいの作家や五、六人の批評家や大勢の政治家や大金持に殺意を抱いたことがある。
もっとも相手もわたしに対してその時は殺意を持ったにちがいないからお合い子の五分と五分であるが、しかし殺すことはできても、死体を切り刻むのは、これは確信をもって言い切れるが、わたしには出来ない相談である。他人をバラバラにするぐらいなら、自分がバラバラにされた方がずっと気が楽だ。
そういうわけで、自分に出来ないことをやってのけるバラバラ事件の犯人に尊敬と興味を抱いているのであるが、バラバラ事件の歴史は、この国においては意外に浅い。わたしに見落としがなければ、はっきり記録に残っているものとしては、1919(大正8)年6月の、この 「信濃川バラバラ事件」 がその濫觴である。*濫觴:物事の始まり・起こり。
犯人は東京帝国大学農学部出身で、農商務省の高等官だった。さすがは東大、犯罪の分野においても東大出身者は新機軸を生み出し重きをなしている。(本文より)
どうです? 面白いと思いません? 怖いもの見たさと野次馬根性で、あなたもきっと読んでみたくなるはずです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆井上 ひさし
1934年山形県東置賜郡小松町生まれ。2010年4月死去。
上智大学仏語科卒業。
作品 「手鎖心中」「吉里吉里人」「腹鼓記」「不忠臣蔵」「東京セブンローズ」他多数
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