『風に舞いあがるビニールシート』(森絵都)_書評という名の読書感想文

『風に舞いあがるビニールシート』森 絵都 文春文庫 2009年4月10日第一刷

第135回直木賞受賞作。愛しぬくことも愛されぬくこともできなかった日々を、今日も思っている。大切な何かのために懸命に生きる人たちの、6つの物語。(帯文より)

【風に舞いあがるビニールシート】
ビニールシートが風に舞う。獰猛な一陣に翻り、揉まれ、煽られ、もみくしゃになって宙を舞う。天を塞ぐ暗雲のように無数にひしめきあっている。雲行きは絶望的に怪しく、風は暴力的に激しい。吹けば飛ぶようなビニールシートはどこまでも飛んでいく。とりかえしのつかない彼方へと追いやられる前に、虚空にその身を引き裂かれないうちに、誰かが手をさしのべて引き留めなければならない - 。

それは常々エドが言う決まり文句で、なぜUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に入ったのかと問われると、彼は決まってそんな答え方をします。

最初、里佳はそれを彼が何かを「はぐらかして」言っているのではと感じていたのですが、すぐに、それこそが紛うかたなき彼の実感なのだとわかります。

世界の紛争地に数多存在する難民を、エドはそんなふうに表現します。そして、彼らを救うためなら何処へでも、躊躇なく出向いて行きます。エドとはそんな人物で、UNHCRの職員なら誰もが認める、筋金入りの現場主義者なのでした。

里佳とエドとの出会いは10年前。外資の投資銀行に勤めていた里佳は、当時転職を考えており、折よく求人欄でUNHCRの空きポストを見つけます。書類審査の通過後、筆記試験に先駆けて行われた面接の席で、面接官の一人として体面したのがエドでした。

無事試験に合格した彼女は、晴れて国際公務員への転身を果たします。里佳が当初配属されたのは支援金の集計やデータ管理を担う部署で、同じ東京事務所とはいえ、広報部のエドとは挨拶を交わす程度の間柄。二人が親しくなるまでには少し時間がかかります。

そのうちひょんなことから口をきくようになり、食事に誘われ、その後(なるべくして)二人は深い関係になります。聞くと、面接の日、エドは里佳のふくらはぎに欲情し、それが為に彼女に一票を投じたのだといいます。

エドはひどく飢えていた。あまさず全部を貪るように里佳を求めた。幾度も。はてることのない欲望は里佳をひるませ、骨まで食らわれそうな恐怖心さえも呼びおこしたが、その全身の骨が、肉が、細胞の一つ一つがエドの洗礼を受けてなにやら別の骨や肉や細胞のごとく生まれかわっていく感覚に、ふと気がつくとえも言われぬ快感を覚えていた。

二人は結婚。つかの間甘やかな生活が続くのですが、やがて、エドの帰りを待つ里佳の心に、それとは別の感情が芽生えてきます。当然といえば当然の、その穏やかならざる感情は、敢えて彼女が気付かぬふりをしていたものでもありました。

戦場さながらの危険地域に夫を送り出す不安。怪我や病気、あるいは死の知らせがいつ舞い込むやもしれない恐怖。待ちに待った一時帰国の日が訪れても、彼はまたすぐに電話すら通じない辺境へと旅立ってしまう。

次に再会できるのはいつ? 里佳が訊くよりも早くエドは笑う。1年後には会えるさ。いや、わからない。また新たな紛争が起こればそれさえも数多の不確定要素の中へ押しやられてしまう。

覚悟はあったものの、フィールドに身を置くUNHCR職員の妻という境遇は、想像以上に里佳を疲弊させます。夫婦とはどこまでも一心同体であるべきだと思う里佳に対して、エドはどこか本質のところで他人を切り離してみているようなところがあります。一番生身のやわらかい部分は誰にも触れさせないような、そんな感じがします。

本物の夫婦になりたい。エドの殻を溶かしてその内側に入りたい。その思いにかけるほんの僅かな意地が、次第次第に、里佳とエドとの距離を隔てることに繋がってゆきます。

※ 実は、エドは過去に一度結婚していたことがあります。里佳は最初それを知らされず、驚き、憤りもしますが、エドは案外平然としています。四十過ぎて離婚歴がただの一回など、アメリカ人としてはごくごくまっとうなことだと言って憚りません。

里佳を憤らせたのは先妻の存在でもなく、それをエドが胸に秘めていたことでもありません。彼がかつて結婚していた、夫として家庭を築いていた、それがあまりにもイメージとかけ離れていたため、何やら痛烈な裏切りにあった思いがしたのでした。

結婚を望んだのは彼女(先妻)で、しかしそれに堪えられず、彼女の方から離婚を言い出したのだといいます。その状況をつぶさに聞きながら、敢えて聞かないようにして、今度はそれを里佳がしようとしています。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆森 絵都
1968年東京都生まれ。
早稲田大学卒業。

作品 「リズム」「宇宙のみなしご」「アーモンド入りチョコレートのワルツ」「つきのふね」「DIVE!!」「カラフル」他多数

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