『玉蘭』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『玉蘭』桐野 夏生 朝日文庫 2004年2月28日第一刷


玉蘭 (文春文庫)

 

ここではないどこかへ・・・。東京の日常に疲れ果てた有子は、編集者の仕事も恋人も捨てて上海留学を選ぶ。だが、心の空虚は埋まらない。そんな彼女のもとに、大祖父の幽霊が現れ、有子は、70年前、彼が上海で書き残した日記をひもとく。玉蘭の香りが現在と過去を結び、有子の何かが壊れ、何かが生まれてくる・・・。(「BOOK」データベースより)

長編小説『玉蘭』を読みました。桐野夏生が書いた初めての恋愛小説、そう紹介していいと思います。直木賞を受賞した『柔らかな頬』から約2年後に刊行された作品で、従来のミテリーとは一線を画し、新たな境地を開くべくして書かれた「大人の恋の物語」です。

まず最初に、タイトルになっている「玉蘭」のことを少しだけ。玉蘭は木蓮にも似た白い厚めの花弁で、すっきりと細長く、優雅な釣り鐘のような形をした可憐な花です。クチナシにそっくりな甘くて強い芳香を放ち、夏の上海の街角でよく売られている花です。

この小説では、現在と70年前の上海が交錯するように語られるのですが、二つの世界が出会うシーンでは必ずこの花が登場し、その匂いが辺りを満たします。はるかなる時空を超えて異なる時代を繋ぐもの - それが噎せるほどにあまやかな、玉蘭の香りなのです。
・・・・・・・・・・
主人公である広野有子は、東京での張りつめた生活に疲れ果て、逃げるようにして上海へやってきます。しかし、日本を離れたからといって彼女の憂鬱が晴れるわけではありません。振り切ってきたはずの恋人・松村行生に対する想いはかえって深まるばかりで、彼の姿が夜毎に浮かんでは消え、有子は上手く眠ることができません。

そんなある日の夜、有子の前に一人の若い男が現れます。誰もいるはずのない部屋に現れたのはまぎれもない幽霊で、有子の大祖父にあたる広野質(ただし)という男です。質は70年前に上海へ渡り、船乗りをしていた人物です。(追って明らかになっていくのですが)彼もまた、宮崎浪子という一人の女性への断ち切れない想いを抱いています。

広野有子と松村行生、かたや広野質と宮崎浪子、上海という異国を舞台に綴られる、時代を隔てた2組の男女の恋愛模様 - 特に有子と浪子という、まるで違う生き方しかできない2人の女性にスポットがあてられ、女性にとっての愛の本質とは何なのかという命題が突きつけられます。

有子は元々優秀な女性ですが、地方の出身者であることに大きな劣等感を抱いています。彼女にとって東京へ出て働くということは、謂わば「戦争」であり「闘争」だと考えています。そして、恋愛における松村との関係についても、彼女にすれば「戦い」のひとつだと感じているのです。

そんな思い込みのせいで、彼女は自分が感じる、曖昧で言葉にならない感情までをも言葉にせずにはいられません。それで傷つき、深く消耗したりを繰り返した挙句に上海へ行き着くわけです。

一方、浪子という女性は有子とはまるで正反対。言葉よりも肉体の交わりによってより深く繋がろうとする、肉体を晒すことで言葉を曖昧にしてしまうような女性です。

浪子は肺病に冒されていますが、残された命を振り絞って夫である質を愛します。その姿はたくましくもあり、極めて妖艶にも映ります。

異なった時代の、異なる事情で行き合う彼等にとっての唯一の接点となるのが、質が遺した日記帳です。母親から託されたその日記帳を携えて有子は上海へやって来るのですが、彼女はまず27歳の質(幽霊)と出会い、まるで旧知の仲のように会話を始めます。これが物語の発端です。

物語が進むにつれて、有子と浪子、質と松村の間も、時空を超えた邂逅を果たします。互いに惹かれ合い結ばれる彼等ですが、いずれの恋も成就することなく、やがて終焉を迎えることになります。そのときに至って、有子の混乱や浪子の絶望といったものがどのように変化を遂げているのか、あるいは遂げられずにいるのかを、ぜひ確かめてください。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


玉蘭 (文春文庫)

◆桐野 夏生
1951年石川県金沢市生まれ。父親の転勤で3歳で金沢を離れ、仙台、札幌を経て中学2年生で東京都武蔵野市に移り住む。
成蹊大学法学部卒業。

作品 「顔に降りかかる雨」「OUT」「グロテスク」「錆びる心」「ジオラマ」「東京島」「IN」「ナニカアル」「だから荒野」「夜また夜の深い夜」「奴隷小説」他多数

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