『絶叫委員会』(穂村弘)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/11
『絶叫委員会』(穂村弘), 作家別(は行), 書評(さ行), 穂村弘
『絶叫委員会』穂村 弘 ちくま文庫 2013年6月10日第一刷
「名言集・1 」
「俺、砂糖入れたっけ? 」
大学一年生のとき、喫茶店で同級生のムロタが云った言葉である。
そのとき、ムロタの目の前には珈琲が置かれていた。それを飲もうとして、途中で自分が砂糖を入れたかどうか、わからなくなったらしい。ミルクなら白くなるが、砂糖は白くならないので痕跡が残らないのだ。「自分でわかんないのかよ」と友人のひとりに云われて、ムロタはちょっと白目を剥くような顔をして考えていたが「忘れた」と応えた。
「阿呆か」と皆はあきれて云った。女の子たちはくすくす笑っている。
「飲めばわかるよ」「甘かったら入れたんだよ」「飲めよ」と口々に云われて、しかし、ムロタは「うう、ううう」と、ただ唸っているだけだった。
動物かよ、と思っておかしかった。
ムロタ、恰好いい奴。下の名前が思い出せない。猫を飼っている友達がいて、その日、たまたま何枚もの猫写真を教室に持ってきていた。ムロタはにこにこしながらそれをみせて貰っていた。
あんまり嬉しそうなので、飼い主は「どれか一枚、好きなのあげるよ」と云った。
ムロタは真剣に写真たちを見比べていたが、その挙げ句にこう云った。「選べない・・・・・・・」
あんなに長い間みてたのに、と思って、私の方が動揺してしまった。「一枚」がどうしても選べず、結局、彼は写真を貰えなかった。
ムロタ、美しい奴。猫が好きだった。また別の或る日、友達の部屋に何人かが集まっていた。ちいちゃんという女の子が辺りをちょっと片づけようとしたとき、ムロタが声をかけた。
「あ、ちいちゃん気をつけて。その辺で俺、さっき靴下脱いだから」
自分の靴下を危険物のように云うのがおかしい。しかも、勝手に脱いだくせに。だが、ムロタは本心から「気をつけて」と云っているのだ。ちいちゃんが自分の汚い靴下に触ってしまわないように。
そこに心をうたれる。ちいちゃんも、くすっと笑って嬉しそうだ。
その「くすっ」は私には一度も向けられたことのない種類の笑顔だった。私も内心「ムロタ、恰好いい」と思ったが、平静を装った。そして、あとでこっそりファイロファックス手帳に彼の言葉をメモした。そんな自分が惨めだった。二十数年後の今、私は依然として、天然の愛嬌やたくまざるユーモアや突き抜けた自由さと無縁のままだ。そして昔のメモを元に、こうして文章を書いてお金を貰っている。
今頃、ムロタはどうしているだろう。あの性格では、どこかで野垂れ死んでいるかもしれない。
ムロタ、眩しい奴。冥福を祈る。
例えば、『絶叫委員会』にはこんなことばかりが書いてあります。
(読書メーターにある)あやのさんの感想を借りると、
ちょっと「もやっ」と思ったことをこれだけ言語化できるのがすごいなあと思った。他人との感覚のずれとか、生きていてずっと知らなかったこととか(知らなくても大きな差はないこと)。現実との微妙なずれを指摘されて、でもそれを直すのではなく、ずれはずれとして認識してそのずれ方を楽しむとか。書いていてよくわからないぞ。穂村さんは周りにいたら楽しそうだけどつきあったらめんどくさそうだな、と勝手に思う。
みたいな感じ。わかります? わかりますよね。 わかってほしいなあ。
以上。
穂村弘。1962年北海道生まれ。歌人。1990年に歌集『シンジケート』(沖積舎)でデビュー。2008年、『楽しい一日』で第44回短歌研究賞、『短歌の友人』(河出書房新社)で第19回伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。短歌のみならず、近年はエッセイなどの散文でも幅広い人気を集めている。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆穂村 弘
1962年北海道札幌市生まれ。
上智大学文学部英文科卒業。歌人。
作品 「シンジケート」「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」「ラインマーカーズ」「もうおうちへかえりましょう」「にょっ記」「整形前夜」など
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