『愛と人生』(滝口悠生)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/10
『愛と人生』(滝口悠生), 作家別(た行), 書評(あ行), 滝口悠生
『愛と人生』滝口 悠生 講談社文庫 2018年12月14日第一刷

「男はつらいよ」 シリーズの子役、秀吉だった 「私」 は、寅次郎と一緒に行方不明になった母を探す旅に出る。映画の登場人物と、それを演じる俳優の人生が渾然一体となって語られ、斬新で独創的と絶賛された “寅さん小説” の表題作ほか、短編 「かまち」 とその続編 「泥棒」 の三作を収録。〈野間文芸新人賞受賞作〉(角川文庫)
表題作 「愛と人生」 を読みました。その冒頭の文章が、これです。
おいちゃーん
おいちゃーん
おーいーちゃーんおいちゃんを呼んでいる男の声がしているのを聞いている自分は今夢の中にいた。呼んでいる男の姿は見えないが、どうもそれは自分の声のような気がした。おいちゃんというのは親父の弟で、だから叔父にあたるのだが、つまり自分は甥なのだが、甥である自分が、叔父を呼ぶ時に、おいちゃんとはこれいかに。「お」 から 「じ」 を経て 「ちゃ」 に至るとなれば、舌があっちこっち行って疲れるので、簡略化すると音声学上は叔父が甥に変化するのである。(P8.9)
おいちゃんといえば、すぐに連想するのが映画 「男はつらいよ」シリーズの主人公、車寅次郎のことです。寅次郎を演じる俳優・渥美清は、(多くの日本人にとって) もはや渥美清であって渥美清ではありません。二人は今や、渾然一体となって存在しています。
小説 「愛と人生」 は、映画 「男はつらいよ」 をベースに、その世界観を残しつつ、新たに誕生したまた別の物語 - とでも言えばいいのでしょうか。映画と同じ人物が登場し、しかし映画とは違う場面を演じます。よく似た役柄で、「本人」 が登場したりします。
たとえば作中にあるこんなやり取り。これは第36作 「柴又より愛をこめて」 に登場するシリーズ全48作中唯一のヌードシーン - 美保純演じるあけみが海ぎわの露天風呂で立ち上がり、背中向きに全裸をさらす場面 - がベースにあります。
美保純は缶ビールを持った右手の人差し指で、私を指さした。私ももう若者と言われるような年ではないのだが。しかし二十七年前は子どもだった。今こうして二十近くも年の離れた、それこそ親子ほどの年の差の美保純と、下田くんだりまで来て一緒に風呂に入り、浴衣を着て向かい合っているのも私がまだ若くて、守れもしないものを守ろうとしたり、いらないものを欲しがったりしているからなのか。
違うわよ、と美保純は言った。それはあんたが馬鹿だからよ。私が言ってる若さは、もっと必死な、熱いやつのこと。馬鹿も利口も関係ない。頭じゃどうにもならない時の話よ。あんたみたく、そんなお茶なんかすすってられないような・・・・・・・。
僕だって、と私は美保純の言葉を遮った。僕なりの必死さはあると思っています。
口ごたえするんじゃないわよ、と今度は美保純が私を遮った。そうやって理知的に会話を進めないの。もっと闇雲に、思いつきで、感情をそのまま言葉にしようとしてみなさいよ。どうせ馬鹿なんだから、考える前にしゃべんなさい。そんなこと言われたら私は絶対黙ってしまう。どうしろと言うのか。そして実際黙りかけたのだが、しかたなく無理矢理口を開いたみたいに、そしてあなたは、と私は言った。プロポーズを断ったあなたは、夫のもとに戻ることを決めて、翌日島を離れたのだった。あの島を、と私は窓から見える島の連なりを指さした。私の指しているのが本当に式根島だかわからない。
そんなこといいの。そうじゃなくて、あんたは要するに私のお尻のことを考えてるんでしょ。お尻の話をすればいいのよ。
私が二十七年前に見た美保純の尻のことを今でも忘れずに、むしろ積極的に思い出して思い出して、それが何かであると思おうとしている。何か、というか、正直に言えば私はそれを愛情だと思いたがっている。
でもそうして思い出すことが愛だとしても、はたしてそれが美保純に何をもたらすのか。そもそもその対象は、美保純なのか、美保純のお尻なのか。思い出すことと伝えること。愛の、理論と実践。(P86.87)
ここにいるのは、はたしてタコ社長の娘・あけみか? それとも美保純本人なのか?・・・・・・・ いずれにせよ、(渥美清と寅次郎の場合とは違い) 私にとってそれはもう圧倒的に美保純本人で、彼女の “お尻” 以外考えられなくなっています。
深く考えてはいけません。実は、ここでは秀吉は秀吉なりに、美保純は美保純で、おのが人生の狭間で必死になって足掻いています。まるで映画のように。およそ現実みたいに。
この本を読んでみてください係数 85/100

◆滝口 悠生
1982年東京都八丈町生まれ。埼玉県入間市出身。
早稲田大学第二文学部中退。
作品 「寝相」「愛と人生」「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」「死んでいない者」「茄子の輝き」「高架線」など
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