『ホテル・アイリス』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2019/05/08 『ホテル・アイリス』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(は行)

『ホテル・アイリス』小川 洋子 幻冬舎文庫 1998年8月25日初版


ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)

これは小川洋子が書いた、まぎれもない 「性愛小説」 です。しかも、描かれているのは、極端に歪で常軌を逸した 「愛のかたち」 です。

17歳の少女・マリと、中年を過ぎた初老の男が出会って共に過ごした時間は、限りなく淫靡で醜悪なものでした。

マリが恋したのは、一人の孤独な翻訳家でした。彼女を虜にしたのは「黙れ、売女」と言った時の、男の深みのある太い声で、「こんな美しい響きを持つ〈命令〉は聞いたことがない」 と彼女は思います。

その時の彼女には、「ばいた」という言葉さえも、とてもいとおしいものに感じられたのでした。

染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹の皺の間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となった時、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる・・・・・・・

島で暮らす年老いた翻訳家は、極端なサディストでした。島以外の賑やかな場所では穏やかな紳士ですが、島へ戻るとマリに対する彼の態度は豹変します。自分の身体にされる行為がありふれたものなのかどうか、それが彼女には分かりませんし、確かめるすべも知りません。

でもたぶん、特別なことだと思いながらも、彼女は男の〈命令〉に逆らうことができません。島に着くと同時に、男の支配は始まります。「服を脱ぎなさい」という響きが自分だけに向けられていると思うだけで、マリの胸は震えます。

こういうやり方で彼が引き止めるだろう、もうここから外へは逃げられないと、マリは最初から気付いています。嫌がるふりをするのは、実はその方がもっと 〈命令〉 が強固になり、もっと圧倒的になることを心で 〈期待〉 しているからでした。

うつぶせにされて身動きが取れず、耳は歪み、乳房は潰れ、口は半分開いたまま閉じることもできません。男の指の動きは正確で、一切の迷いがありません。痛いはずなのに、神経がもつれて、与えられた痛みが肌にしみ込んだ途端に、甘美な香りを放ち出します。

紐は身体中の肉にめり込み、くぼみを締め上げます。両腕は手首で縛られ、背中へ回されています。乳房はぶざまに押し潰されていますが、触れてもらうのを望むように乳首はうす桃色に染まっています。紐は太ももと腰骨につながり、股間を大きく押し広げています。

すべてがきちん整頓された部屋で、マリだけが秩序を乱しています。ワンピースと下着はあちこちに散らばり、ソファの上に異物のようにマリだけが転がっています。ガラスに映るマリは死にかけた昆虫、肉屋の倉庫にぶら下げられたにわとりのようでした。
・・・・・・・・・・・・・・
マリの母親は、海辺に建つホテルを経営しています。2人きりの家族で、マリは高校を半年でやめさせられ、今はフロントの仕事を手伝っています。海辺のリゾート地にあるとはいえ、「ホテル・アイリス」は決して上等なホテルではありません。

母親とマリの他には手伝いのおばさんがいるだけの小さなホテルで、ときには娼婦が出入りしたりもします。マリがその男を初めて見たのも、明らかに商売女と分かる、たいして若くもない首に皺の目立つ女が、部屋から飛び出してきたときのことでした。

「この変態野郎! 」と喚く女に向かって、男は静かに「黙れ、売女」と言い放ちます。そのひと言が、彼女の何かと呼応します。その声で何かが覚醒したマリは、その後、倒錯した性の深間へと一直線に突き進んで行くことになります。

小説を読む限り、マリに余計な逡巡や迷いはありません。それどころか、待ちかねたような気配さえ感じさせます。17歳の少女が、おそらく自分の父親よりも年嵩の男に惹かれて、そうなることを半ば予感し、さらには密かな期待を抱えながら男が暮らす島へと渡ります。

そこで待ち受けていたものは、あらゆる少女の想定を凌駕します。絶対的な服従のもとで恥辱にまみれる自分もそうなら、気づけば、そこには更なる嗜虐を乞い求めている自分がいるのです。マリはまるで堰を切ったように、一気に性の魔性に目覚めるのでした。

この本を読んでみてください係数 80/100


ホテル・アイリス (幻冬舎文庫)

◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「海」「夜明けの縁をさ迷う人々」「ミーナの行進」「ことり」他多数

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