『獅子吼』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
『獅子吼』(浅田次郎), 作家別(あ行), 書評(さ行), 浅田次郎
『獅子吼』浅田 次郎 文春文庫 2018年12月10日第一刷
けっして瞋(いか)るな。瞋れば命を失う - 父の訓えを守り、檻の中で運命を受け入れて暮らす彼が、太平洋戦争下の過酷に苦しむ人間たちを前に掟を破る時 - それぞれの哀切と尊厳が胸に迫る表題作ほか、昭和四十年の日帰りスキー旅行を描く 「帰り道」、学徒将校が満州で奇妙な軍人に出会う 「流離人(さすりびと)」 など華と涙の王道六篇。(文春文庫)
おそらく、あなたは何度も涙することでしょう。その哀切に。追い詰められてなお貫こうとする命の尊厳に。人間だけではありません。彼もまた 「戦争」 を戦っています。
獅子吼
私は洞の中で身を起こした。真珠のようにつらなる滴の向こう側に目を凝らせば、遙かな見晴台の高みに、行き昏れたみなしごのように肩を寄せ合う二人が見えた。
草野君はさほど変わらぬが、鹿内君はずいぶん大人になった。
これは少しも理不尽な話ではない。もっとも、そう思うのは私だけだろうが。愛する人間の手にかかるのは本望だ。
「どうだ、少しは落ちついたろう」
「はい。ありがとうございました。あの、鹿内兵長殿 - 」
「なじょした。はっきり言え」
もう殴りそうもない。鹿内君の声は穏やかだった。
「自分は、身のほど知らずの貧乏人でありあんすか。背伸びして農学校さ行ったがら、こんたら目に遭うのでありあんすか」
鹿内君は黙りこんでしまった。答えなくていい。今は君らしく、寡黙でありたまえ。あのころから君は、人間とはあまり口をきかず、けだものとばかり話していた。だから私は、君の苦しみをすべて知っている。
裕福な家の子らにまじって、君たちが学問を志したのは、けっして背伸びなどではない。どうかこの結果を、そんなふうに考えないでほしい。努力する者にこそ試練は与えられるのだ。(P43.44)
※草野二等兵が持ち出したのは、食べ尽くされた後の “残飯” でした。その大方は豚の骨と鶏の頭で、どのみち捨てられる運命にあります。しかし軍隊では、それは許されない行為でした。彼は罰として、動物園にいる動物を射殺しろと命じられます。
彼は18歳で徴兵される前、農学校におり、使役として西山の動物園にいる動物たちの世話をしていました。彼は、その動物たちを殺せと命令されたのです。草野二等兵の任務を見届けるため、彼に付き添ったのが鹿内兵長でした。鹿内兵長もまた、農学校を出ています。
「さあて、待っておっても仕方ねなっす。呼んでみるべ」
二人は同時に私の名を呼んだ。
「ボース! 」
私は身を起こして洞を出た。この門出を寿ぐように雨は已み、山背の雲は流れて青空が顕れた。
「ボース! 」
草野君は気付かない。どうして鹿内君が私の名前を知っているのか。たぶん彼には、ほかのことを考える余裕がないのだろう。
「目標、正面の的。距離、三百 - おい、草野。空に向けて撃っとけ。銃が汚れてねえと怪しまれるぞ」
草野君は仰角に銃を撃ち、反動で尻餅をついた。
私は水溜りを歩み、巌の上に立った。
どうした、鹿内君。何を震えている。いったい何にそうも怯え、何を悲しんでいるのだ。これは戦争ではないか。恨み憎しみのかけらもない相手に、「敵」 という名を付けて殺す戦争ではないか。そのさなかにある君が、何をためらう。
私は勇気を揮わねばならない。今こそ、愛する人間たちのために、王者しか持ちえぬ真の勇気を揮わねば。妻にも子らにも分かち与えられなかった愛情のすべてをこめて、吼えねばならぬ。(P44.45)
掟に背き、すべての矜持を賭け、遂に獅子は瞋ることを決意します。
[収録作品]
・獅子吼
・帰り道
・九泉閣へようこそ
・うきよご
・流離人(さすりびと)
・ブルー・ブルー・スカイ
この本を読んでみてください係数 85/100
◆浅田 次郎
1951年東京都中野区生まれ。
中央大学杉並高等学校卒業。
作品 「地下鉄に乗って」「鉄道員」「壬生義士伝」「お腹召しませ」「中原の虹」「帰郷」他多数
関連記事
-
-
『マタタビ潔子の猫魂』(朱野帰子)_派遣OL28歳の怒りが爆発するとき
『マタタビ潔子の猫魂』朱野 帰子 角川文庫 2019年12月25日初版 マタタビ潔子の猫魂
-
-
『砂漠ダンス』(山下澄人)_書評という名の読書感想文
『砂漠ダンス』山下 澄人 河出文庫 2017年3月30日初版 砂漠ダンス (河出文庫 や)
-
-
『セイレーンの懺悔』(中山七里)_書評という名の読書感想文
『セイレーンの懺悔』中山 七里 小学館文庫 2020年8月10日初版 セイレーンの懺悔 (小
-
-
『トワイライトシャッフル』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文
『トワイライトシャッフル』乙川 優三郎 新潮文庫 2017年1月1日発行 トワイライト・シャッ
-
-
『その先の道に消える』(中村文則)_書評という名の読書感想文
『その先の道に消える』中村 文則 朝日新聞出版 2018年10月30日第一刷 その先の道に消え
-
-
『きれいなほうと呼ばれたい』(大石圭)_書評という名の読書感想文
『きれいなほうと呼ばれたい』大石 圭 徳間文庫 2015年6月15日初刷 きれいなほうと呼ばれ
-
-
『笹の舟で海をわたる』(角田光代)_書評という名の読書感想文
『笹の舟で海をわたる』角田 光代 毎日新聞社 2014年9月15日第一刷 笹の舟で海をわたる
-
-
『トリツカレ男』(いしいしんじ)_書評という名の読書感想文
『トリツカレ男』いしい しんじ 新潮文庫 2006年4月1日発行 トリツカレ男 (新潮文庫)
-
-
『三面記事小説』(角田光代)_書評という名の読書感想文
『三面記事小説』角田 光代 文芸春秋 2007年9月30日第一刷 三面記事小説 (文春文庫)
-
-
『泳いで帰れ』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文
『泳いで帰れ』奥田 英朗 光文社文庫 2008年7月20日第一刷 泳いで帰れ (光文社文庫)