『入らずの森』(宇佐美まこと)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
『入らずの森』(宇佐美まこと), 作家別(あ行), 宇佐美まこと, 書評(あ行)
『入らずの森』宇佐美 まこと 祥伝社文庫 2016年12月31日第6刷
陰惨な歴史が残る四国山中の集落・尾峨に赴任した中学教師・金沢には、競技中の事故で陸上を諦めた疵があった。彼の教え子になった金髪の転校生・杏奈には、田舎を嫌う根深い鬱屈が。一方、疎外感に苛まれるIターン就農者・松岡は、そんな杏奈を苦々しく見ていた。一見、無関係な三人。だが、彼らが平家の落人伝説も残る不入森で交錯した時、地の底で何かが蠢き始める・・・・・・・。(祥伝社文庫)
プロローグ (全文)
それは常闇から浮かび上がった。
茫洋たる海の中をたゆたうように空ろな仮眠はとぎれ、つながり、また続く。
小さな萌しがそれを揺り動かす。
まぼろしの世界の中のたったひとつの生々しいもの - 飢餓。
それは飢えていた。
森の底 - 土の中。
湿潤で寒々しいその場所で、それははっきりと覚醒する。
岸を打つ波のような原初のリズムにしばらく身をまかせた後、それは動きだす。
模糊とした形象のまま森の底を這い進む。
霧が屍衣のようにそれを覆っている。
やがて明るく開けた場所に到達する。
振動が伝わってきた。何かが近寄ってくる。生体が生み出す一定のリズムを感じ取って、それは頭をもたげた。
時がきたのだ。それは身を凝らせる。
何かがすぐそばにやって来た。
明るい林の中で少女は立ち止まった。金色に染めた髪の毛に木洩れ日が降り注ぐ。
何十本もの榾木がお互いに寄りかかるように組まれたその間。
何かが腐乱する直前の、甘く爛れた匂いが漂っている。
少女は時折腰をかがめては、そこに生えたシイタケを摘み取って、手元のカゴに入れている。ひそかに寄せた眉根、きっと固く結んだ口元が、彼女の不機嫌さを表している。それでも機械的に指がシイタケをもぎ取る。
乱暴にシイタケをもぎ取ったその反動で、少女の指が榾木の表面に貼り付いていた物体に触れた。固まった皮膚のような肌色をしたその破片は、ぱりんと砕けて下に落ちた。
記憶の波が押し寄せる。
甘く温かく腐乱した餌の匂い・・・・・・・それにまとわりついて離れることのない匂い。
体の内奥で、滞っていたものが煮えたぎり、流れ出す。
少女はふっと顔を上げた。
辺りの様子を窺っているようだ。鼻をひくつかせる。
「何、この匂い? 」
少女はますます不機嫌な表情になる。
それは再びひりつくような飢えを感じる。
「杏奈! 」
榾木の連なりの向こうで老婆が身を起こした。
「何をぐずぐずしとんじゃ! 」
少女はカゴを持ち直すと歩きだした。
甘いような酸いような、死体を思わせる腐臭がふわりと立ち昇る。
それきり森の中は静まり返った。
第一章 幻夢
第二章 不入森 (いらずのもり)
第三章 骸花 (むくろばな)
第四章 曼荼羅 (まんだら)
第五章 斉唱
エピローグ
新米教師の圭介。金髪の少女・杏奈。そしてIターン就農者の松岡。三人はそれぞれに縁があり、たまたま尾峨にやって来たのでした。それだけならよかったものの、三人はまたそれぞれに、心に深い傷を負っています。気付かぬうちに、人を強く怨んでいます。
そのことが、やがて 〈それ〉 を目覚めさせることになります。〈それ〉 は生きてはいますが、人ではありません。意思があるかないかもわかりません。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆宇佐美 まこと
1957年愛媛県松山市生まれ。
松山商科大学人文学部卒業。
作品 「るんびにの子供」「愚者の毒」「虹色の童話」「角の生えた帽子」「死はすぐそこの影の中」「熟れた月」「ボニン浄土」他多数
関連記事
-
-
『残された者たち』(小野正嗣)_書評という名の読書感想文
『残された者たち』小野 正嗣 集英社文庫 2015年5月25日第一刷 残された者たち (集英社
-
-
『いのちの姿/完全版』(宮本輝)_書評という名の読書感想文
『いのちの姿/完全版』宮本 輝 集英社文庫 2017年10月25日第一刷 いのちの姿 完全版
-
-
『くちなし』(彩瀬まる)_愛なんて言葉がなければよかったのに。
『くちなし』彩瀬 まる 文春文庫 2020年4月10日第1刷 くちなし (文春文庫)
-
-
『白いセーター』(今村夏子)_書評という名の読書感想文
『白いセーター』今村 夏子 文学ムック たべるのがおそい vol.3 2017年4月15日発行
-
-
『切羽へ』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
『切羽へ』井上 荒野 新潮文庫 2010年11月1日発行 切羽へ (新潮文庫) &nbs
-
-
『海』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
『海』小川 洋子 新潮文庫 2018年7月20日7刷 海 (新潮文庫) 恋人の家を訪ね
-
-
『I’m sorry,mama.』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文
『I'm sorry,mama.』桐野 夏生 集英社 2004年11月30日第一刷 I’m s
-
-
『悪徳の輪舞曲(ロンド)』(中山七里)_シリーズ最高傑作を見逃すな!
『悪徳の輪舞曲(ロンド)』中山 七里 講談社文庫 2019年11月14日第1刷 悪徳の輪舞曲
-
-
『罪の余白』(芦沢央)_書評という名の読書感想文
『罪の余白』芦沢 央 角川文庫 2015年4月25日初版 罪の余白 (角川文庫) どうしよう
-
-
『ブラフマンの埋葬』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
『ブラフマンの埋葬』小川 洋子 講談社文庫 2017年10月16日第8刷 ブラフマンの埋葬