『月と雷』(角田光代)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/14
『月と雷』(角田光代), 作家別(か行), 書評(た行), 角田光代
『月と雷』角田 光代 中央公論新社 2012年7月10日初版
大人になっても普通の生活ができないのが智、普通の生活ができる人と一緒に暮らそうとして、やっぱり暮らせないのが泰子です。
智と泰子は同い年。かつて智の母・直子と泰子の父である辻井さんは恋仲で、幼い頃の一時期、4人は一緒に暮らしたことがあります。直子との交際がばれたのが原因で、辻井さんの妻が家を出たあとのことです。
成長してからの2人の回想--智は、これまでの34年間のうちで、この時期がもっとも楽しかったと思っています。一方の泰子は、それまでの平穏な暮らしの中に突然乱入してきた直子と智によって、普通の生活が「ねじ曲げられたのではないか」と感じています。
そもそもの原因は、直子という女性です。彼女は、子どもに何々をしろ、何々をするなと言うことがありません。学校に行きたくなければ休んで遊んでいればよかったし、風呂に入りたくなければそれもよし、眠ければいつでもどこでも眠ればよかったのです。
直子はいつもテレビを見ているか、雑誌を見ているか、酒を飲んでいるかで、家事はしません。食事のほとんどは駄菓子です。
智はすぐに同い年の泰子と馴染んで、子犬のようにじゃれ合って遊びます。体じゅうを撫でさすると気持ちよく眠れることを泰子に教え、素っ裸で布団に入り、たがいの体をさすり合います。素っ裸で家のなかを走っていても、直子は2人を怒りません。
そんな暮らしが1年ほど続いた後、直子と智は九州の熊本へ引っ越すことになります。直子は生来浮き草のようにしか暮らせない性分の女性です。そして、男を引き寄せる不思議な魔力を持っています。男と別れる度に、必ず彼女を「拾う」男が現れます。
直子の流転とともに智は成長するのですが、辻井さんの家を出たあとの暮らしも、めちゃくちゃさでいえば似たようなもの。熊本の次は新潟、その次は千葉。千葉の海沿いの町で智は中学生になり、卒業とともに内陸に移り、高校2年生のとき、直子は家を出ます。
1ヶ月後に電話があり「福井にいるけど、あんた、くる?」と訊かれるのですが、一人暮らしができたので、いかないと、智は答えます。その後、高校を出て、智は東京に移り住みます。高校卒業後、直子からの仕送りは途絶え、智はアルバイトをして暮らしています。
・・・・・・・・・・
小学校1年で別れて以来、何の連絡もないまま30代の半ばになった2人が再び出会うことになります。きっかけは、智の一方的な願望でした。泰子はと言えば、むしろ2人と一緒に暮らした過去をなかったものにしたいと念じながら生きていたのです。
それが証拠に、智がやってきたとき、「ああ、ついに不幸が私をつかまえにきた」と咄嗟に泰子は思います。このときの彼女の心境は複雑で、自分でも上手く整理ができません。
智のことがそれまでの自分の暮らしぶりを一変させた、疫病神や死神のように見えるのですが、どこかで、いつかこんな事態になることを予感していた自分にも気付いてしまうのです。泰子は、心から智を拒むことができません。
・・・・・・・・・・
小さい頃から女にモテて、ちやほやされるのが当たり前だった智。34歳になるまで、交際相手に不自由したことはありません。しかし、彼女たちはある時期になると智のもとから去って行きます。たとえそれが自分から近づいてきた女性であったとしても。
彼には、関係を持続させる力がありません。生活を維持するための基本となるべき「何か」が決定的に欠如しています。結婚しようと思った女性には「普通のことが普通にできない」であるとか、「あなたといると生活している気がしない」と言われ、結果フラれることになります。そんなとき、智はふいに泰子に会いたいと思ったのです。
智と再会したときの泰子は、結婚こそしていないものの、すでに将来を約束した男性がいます。食品加工会社に勤める山信太郎は、泰子が今まで交際したどの男とも違い、焦ったり不満を言うことがありません。彼女を労わり、何も責めず、忍耐強い男です。
泰子は、けれど太郎とどれだけ親しくなっても、自分の過去については語らないでいます。太郎のような健全な男は、辻井家のねじれ、つまり泰子自身のねじれに恐怖を感じるのではないかということが何よりの気がかりだったのです。
普通とは言い難いかつての生活は、自分のなかに確固としてあるねじれだと泰子は考えています。今願うのは、太郎と結婚してともに暮らし始めたとき、そのねじれが生活を脅かすことがないように、ということでした。まともな生活を創り出せるのか、その一点だけが泰子の不安です。智が現れたのは、まさにそんなときのことです。
覚悟を決めて、正月には太郎の実家へ挨拶に行くことになっています。しかし、智と再会した今、そんな結婚に関わるすべての手続きが、どんどん面倒に感じられていきます。泰子は今、「ああ、たしかに私は不幸に追いつかれたのかもしれない」と思うのでした。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ドラママチ」「マザコン」「かなたの子」「私のなかの彼女」「笹の舟で海をわたる」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数
◇ブログランキング
関連記事
-
『ツ、イ、ラ、ク』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文
『ツ、イ、ラ、ク』姫野 カオルコ 角川文庫 2007年2月25日初版 地方。小さな町。閉鎖的なあの
-
『連鎖』(黒川博行)_書評という名の読書感想文
『連鎖』黒川 博行 中央公論新社 2022年11月25日初版発行 経営に行き詰った
-
『だれかの木琴』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
『だれかの木琴』井上 荒野 幻冬舎文庫 2014年2月10日初版 主婦・小夜子が美容師・海斗から受
-
『父と私の桜尾通り商店街』(今村夏子)_書評という名の読書感想文
『父と私の桜尾通り商店街』今村 夏子 角川書店 2019年2月22日初版 違和感を
-
『人間に向いてない』(黒澤いづみ)_書評という名の読書感想文
『人間に向いてない』黒澤 いづみ 講談社文庫 2020年5月15日第1刷 とある若
-
『老後の資金がありません』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文
『老後の資金がありません』垣谷 美雨 中公文庫 2018年3月25日初版 「老後は安泰」のはずだっ
-
『鳥の会議』(山下澄人)_書評という名の読書感想文
『鳥の会議』山下 澄人 河出文庫 2017年3月30日初版 ぼくと神永、三上、長田はいつも一緒だ。
-
『白い衝動』(呉勝浩)_書評という名の読書感想文
『白い衝動』呉 勝浩 講談社文庫 2019年8月9日第1刷 第20回大藪春彦賞受賞作
-
『翼』(白石一文)_書評という名の読書感想文
『翼』白石 一文 鉄筆文庫 2014年7月31日初版 親友の恋人である、ほとんど初対面の男から結婚
-
『帝都地下迷宮』(中山七里)_書評という名の読書感想文
『帝都地下迷宮』中山 七里 PHP文芸文庫 2022年8月17日第1版第1刷 現代