『夏物語』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/07 『夏物語』(川上未映子), 作家別(か行), 川上未映子, 書評(な行)

『夏物語』川上 未映子 文春文庫 2021年8月10日第1刷

世界が絶賛する最高傑作!
米TIME誌 ベスト10」 「米ニューヨーク・タイムズ 必読100冊」 「米図書館協会ベストフィクション40カ国以上で刊行決定!  

生まれてくることの意味を問い、人生のすべてを大きく包み込むエネルギーに満ちた泣き笑いの大長編 - 大阪の下町で生まれ小説家を目指し上京した夏子。38歳の頃、自分の子どもに会いたいと思い始める。子どもを産むこと、持つことへの周囲の様々な声。そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と出会い心を寄せていく。生命の意味をめぐる真摯な問いを切ない詩情と泣き笑いの筆致で描く、全世界が認める至高の物語。(文春文庫)

この夏私が読んだ中の、文句なしのNO.1。

シーン1] 私にもこれに似た記憶があります。記憶は一生涯、消えてはくれません。

「わたしがあれ何歳やったかな、幼稚園くらいかな、コミばあんとこ行くまえ。海の近くに住んでたとき。幼稚園でな、遠足あってん。葡萄狩り。緑子、葡萄狩りとかしたことある? 」
緑子は首をふった。
「葡萄狩り」 わたしは笑った。「覚えてるかぎり、幼稚園で楽しみにしてたことなんかいっこもないのに、なんでかわたし、その葡萄狩りだけすっごい楽しみにしててな、もう何日もまえから楽しみにしてて、そわそわしてて、自分でしおりみたいなん勝手に作ったりしててん。あれなんやったんやろなって思うくらい、ほんまに指おり数えるって感じで、楽しみにしてた葡萄狩りがあってん。

でもな、行かれへんかってん。その遠足に行くにはべつにお金が必要で、それがなかったんやな。いま思ったら数百円とかそんなんやと思うけどな。んで朝起きたらおかんが 『今日は休みやで』 って言うねんな。なんでって訊きたかったけどそんなん訊かれへんやんか。お金ないのに決まってるから。それに朝は基本的におとんが寝てるから、わたしも巻ちゃんもめっさ静かにしてなあかんかってん。ラーメンも、音とかたてんと食べなあかんかってんで。

うんわかった、家おるわな、って言うてもうたらもう、あとからあとから涙が出てきて。自分でもびっくりするくらいに悲しくて、涙が止まらへんねん。泣き声だしたらあかんから部屋のはしっこでタオル噛んでずうっと泣いてな。わたしこうみえて、ちっちゃいときからだいたいのこといけんねんけど、あれはあかんくて、なんであんなに泣いたんやろなって思うくらいに涙が出て、あれはなんであんなに悲しかったんやろな。葡萄狩りなんかもちろんしたこともないし、どんなんかもわからんし、べつに葡萄が食べたかったわけじゃなかってんけどな。あれはなんであんなに泣いたんやろなって、今もときどき思うねん。葡萄がいったい、何やったんやろうって。

シーン2] 夏目 (夏子) は、自分の子どもがほしい、自分の子どもに会いたいと、いつしか強く願うようになります。

「くら、おいで」
くらはとことこと歩いて遊佐のところまで来ると手を伸ばし、そのまま遊佐に抱きあげられた。頭のてっぺんで小さなゴムで結わえられたやわらかそうな髪が斜めにずれ、薄い小さな水色のランニングシャツを着ていた。くらは四歳よりももっと小さな子どものようにみえた。唇は文字どおりきゅっと血があつめられたようなばら色をしていて、頬はぷっくりと膨らみ、わたしはその顔をまじまじと見つめた。

「くら、夏目だよ。なつめ。ママの友だち」
「はじめまして、夏目です」
くらは人見知りをしない子らしく、「食べる? 」 と訊きながらわたしがだし巻き卵をスプーンにのせて口に近づけると、当たりまえのようにぱくりと食べた。それからごく自然にわたしの膝のうえにのるとチーズが欲しいと言い、包み紙をはがしてやるとまた小さな口をああんとひらいた。

くらの手も指も、驚くほどに小さかった。先についた爪はさらに小さく、それらは生まれたばかりの海の透明な微生物のようにはかなく透きとおっていた。じっと見つめていると、ふいにくらがにっこりと笑って腕を伸ばし、わたしを抱きしめるように抱きついてきた。

わたしは一瞬どきりとしてどうしていいのかわからなかったけれど、両腕で抱えるようにわたしもくらを抱きしめた。めまいがするくらいに気持ちがよかった。くらの体は小さく、やわらかかった。太陽の匂いをめいっぱいに吸いこんだ洗濯物や、春のひだまりや、静かに上下する仔犬のお腹の温かな膨らみや、夏の雨あがりに輝いていたアスファルトの光や、生ぬるい泥のひたひたした感触や、そんなものをすべてあわせたような匂いが、記憶が、くらの首のあたりから立ち昇っているのだった。わたしはくらをしっかりと抱いて、何度も鼻から息を吸って呼吸をくりかえした。息を吸うごとに体がゆるみ、頭の皮がじんわりとしびれた。

※子どもは、自分が望んで生まれてくるわけではありません。すべては親のエゴ。親の都合で子どもは生まれてきます。そこには、どんな愛があるのでしょう? それでも子供がほしい、 自分の子どもに会いたいと願う気持ちは、どこからやってくるのでしょう。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆川上 未映子
1976年大阪府大阪市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部哲学専攻科入学。(1996)

作品 「乳と卵」「ヘヴン」「わたくし率 イン 歯-、または世界」「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「すべて真夜中の恋人たち」「愛の夢とか」他多数

関連記事

『だから荒野』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『だから荒野』桐野 夏生 文春文庫 2016年11月10日第一刷 46歳の誕生日、夫と2人の息子と

記事を読む

『ウィステリアと三人の女たち』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『ウィステリアと三人の女たち』川上 未映子 新潮文庫 2021年5月1日発行 大き

記事を読む

『理系。』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『理系。』川村 元気 文春文庫 2020年9月10日第1刷 いかに 「理系の知恵」

記事を読む

『夏の騎士』(百田尚樹)_書評という名の読書感想文

『夏の騎士』百田 尚樹 新潮社 2019年7月20日発行 勇気 - それは人生を切

記事を読む

『名短篇、ここにあり』(北村薫/宮部みゆき編)_書評という名の読書感想文

『名短篇、ここにあり』北村薫/宮部みゆき編 ちくま文庫 2008年1月10日第一刷 「少女架刑」

記事を読む

『陽だまりの彼女』(越谷オサム)_書評という名の読書感想文

『陽だまりの彼女』越谷 オサム 新潮文庫 2011年6月1日発行 幼馴染みと十年ぶりに再会した僕。

記事を読む

『二人道成寺』(近藤史恵)_書評という名の読書感想文

『二人道成寺』近藤 史恵 角川文庫 2018年1月25日初版 恋路の闇に迷うた我が身、道も法も聞

記事を読む

『二千七百の夏と冬』(上下)(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『二千七百の夏と冬』(上下)荻原 浩 双葉文庫 2017年6月18日第一刷 [物語の発端。現代の話

記事を読む

『小説 8番出口 Exit 8 』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『小説 8番出口 Exit 8 』川村 元気 水鈴社 2025年8月8日 第1刷発行 全世

記事を読む

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静)_書評という名の読書感想文

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(下巻)伊集院 静 講談社文庫 2016年1月15日第一刷

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『八月の母』(早見和真)_書評という名の読書感想文

『八月の母』早見 和真 角川文庫 2025年6月25日 初版発行

『おまえレベルの話はしてない』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『おまえレベルの話はしてない』芦沢 央 河出書房新社 2025年9月

『絶縁病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『絶縁病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2025年10月11日 初版第1

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子)_書評という名の読書感想文

『木挽町のあだ討ち』永井 紗耶子 新潮文庫 2025年10月1日 発

『帰れない探偵』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『帰れない探偵』柴崎 友香 講談社 2025年8月26日 第4刷発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑