『夏物語』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『夏物語』川上 未映子 文春文庫 2021年8月10日第1刷

夏物語 (文春文庫)

世界が絶賛する最高傑作!
米TIME誌 ベスト10」 「米ニューヨーク・タイムズ 必読100冊」 「米図書館協会ベストフィクション40カ国以上で刊行決定!  

生まれてくることの意味を問い、人生のすべてを大きく包み込むエネルギーに満ちた泣き笑いの大長編 - 大阪の下町で生まれ小説家を目指し上京した夏子。38歳の頃、自分の子どもに会いたいと思い始める。子どもを産むこと、持つことへの周囲の様々な声。そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と出会い心を寄せていく。生命の意味をめぐる真摯な問いを切ない詩情と泣き笑いの筆致で描く、全世界が認める至高の物語。(文春文庫)

この夏私が読んだ中の、文句なしのNO.1。

シーン1] 私にもこれに似た記憶があります。記憶は一生涯、消えてはくれません。

「わたしがあれ何歳やったかな、幼稚園くらいかな、コミばあんとこ行くまえ。海の近くに住んでたとき。幼稚園でな、遠足あってん。葡萄狩り。緑子、葡萄狩りとかしたことある? 」
緑子は首をふった。
「葡萄狩り」 わたしは笑った。「覚えてるかぎり、幼稚園で楽しみにしてたことなんかいっこもないのに、なんでかわたし、その葡萄狩りだけすっごい楽しみにしててな、もう何日もまえから楽しみにしてて、そわそわしてて、自分でしおりみたいなん勝手に作ったりしててん。あれなんやったんやろなって思うくらい、ほんまに指おり数えるって感じで、楽しみにしてた葡萄狩りがあってん。

でもな、行かれへんかってん。その遠足に行くにはべつにお金が必要で、それがなかったんやな。いま思ったら数百円とかそんなんやと思うけどな。んで朝起きたらおかんが 『今日は休みやで』 って言うねんな。なんでって訊きたかったけどそんなん訊かれへんやんか。お金ないのに決まってるから。それに朝は基本的におとんが寝てるから、わたしも巻ちゃんもめっさ静かにしてなあかんかってん。ラーメンも、音とかたてんと食べなあかんかってんで。

うんわかった、家おるわな、って言うてもうたらもう、あとからあとから涙が出てきて。自分でもびっくりするくらいに悲しくて、涙が止まらへんねん。泣き声だしたらあかんから部屋のはしっこでタオル噛んでずうっと泣いてな。わたしこうみえて、ちっちゃいときからだいたいのこといけんねんけど、あれはあかんくて、なんであんなに泣いたんやろなって思うくらいに涙が出て、あれはなんであんなに悲しかったんやろな。葡萄狩りなんかもちろんしたこともないし、どんなんかもわからんし、べつに葡萄が食べたかったわけじゃなかってんけどな。あれはなんであんなに泣いたんやろなって、今もときどき思うねん。葡萄がいったい、何やったんやろうって。

シーン2] 夏目 (夏子) は、自分の子どもがほしい、自分の子どもに会いたいと、いつしか強く願うようになります。

「くら、おいで」
くらはとことこと歩いて遊佐のところまで来ると手を伸ばし、そのまま遊佐に抱きあげられた。頭のてっぺんで小さなゴムで結わえられたやわらかそうな髪が斜めにずれ、薄い小さな水色のランニングシャツを着ていた。くらは四歳よりももっと小さな子どものようにみえた。唇は文字どおりきゅっと血があつめられたようなばら色をしていて、頬はぷっくりと膨らみ、わたしはその顔をまじまじと見つめた。

「くら、夏目だよ。なつめ。ママの友だち」
「はじめまして、夏目です」
くらは人見知りをしない子らしく、「食べる? 」 と訊きながらわたしがだし巻き卵をスプーンにのせて口に近づけると、当たりまえのようにぱくりと食べた。それからごく自然にわたしの膝のうえにのるとチーズが欲しいと言い、包み紙をはがしてやるとまた小さな口をああんとひらいた。

くらの手も指も、驚くほどに小さかった。先についた爪はさらに小さく、それらは生まれたばかりの海の透明な微生物のようにはかなく透きとおっていた。じっと見つめていると、ふいにくらがにっこりと笑って腕を伸ばし、わたしを抱きしめるように抱きついてきた。

わたしは一瞬どきりとしてどうしていいのかわからなかったけれど、両腕で抱えるようにわたしもくらを抱きしめた。めまいがするくらいに気持ちがよかった。くらの体は小さく、やわらかかった。太陽の匂いをめいっぱいに吸いこんだ洗濯物や、春のひだまりや、静かに上下する仔犬のお腹の温かな膨らみや、夏の雨あがりに輝いていたアスファルトの光や、生ぬるい泥のひたひたした感触や、そんなものをすべてあわせたような匂いが、記憶が、くらの首のあたりから立ち昇っているのだった。わたしはくらをしっかりと抱いて、何度も鼻から息を吸って呼吸をくりかえした。息を吸うごとに体がゆるみ、頭の皮がじんわりとしびれた。

※子どもは、自分が望んで生まれてくるわけではありません。すべては親のエゴ。親の都合で子どもは生まれてきます。そこには、どんな愛があるのでしょう? それでも子供がほしい、 自分の子どもに会いたいと願う気持ちは、どこからやってくるのでしょう。

この本を読んでみてください係数 85/100

夏物語 (文春文庫)

◆川上 未映子
1976年大阪府大阪市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部哲学専攻科入学。(1996)

作品 「乳と卵」「ヘヴン」「わたくし率 イン 歯-、または世界」「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「すべて真夜中の恋人たち」「愛の夢とか」他多数

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