『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』中山 七里 講談社文庫 2013年11月15日第一刷

御子柴礼司は被告に多額の報酬を要求する悪辣弁護士。彼は十四歳の時、幼女バラバラ殺人を犯し少年院に収監されるが、名前を変え弁護士となった。三億円の保険金殺人を担当する御子柴は、過去を強請屋のライターに知られる。彼の死体を遺棄した御子柴には、鉄壁のアリバイがあった。驚愕の逆転法廷劇! (講談社文庫解説より)

「死体に触れるのは、これが二度目だった」- 物語は、こんな書き出しで始まります。続けて、その死体の現在状況が粛々と綴られて行きます。

既に死後硬直が始まり、体温と共に弾力を失った肉体はもはや生き物ではなかったが、物体というにはまだ生々しさが残っている。(中略)皮膚を押さえてもそれを押し戻す力はなく、まるで固まりかけた粘土細工のように指を沈ませていく。

口の端からでろりと露出した舌は地面に着かんばかりに伸びきっており、別の生き物の屍骸にも見えておぞましさはこの上ない。(中略)運よく腸や膀胱の内容物が少ないらしく脱糞も失禁もしていないが、今も自然分泌された胃液が胃壁自体を融解し、死体は内部から腐敗が進行している。(後略)

死体から上着とズボン、そして靴を脱がせ、そのあと御子柴は手近にあったブルーシートで全身を隙間なく包み、一気に担ぎ上げます。彼がしようとしているのは、死体を今在る場所から別の場所へと移動すること。死体が真に死体となった場所を曖昧にするために、入間川へ遺棄しようとしているのです。

普通これを読めば、とんでもないことをしている「御子柴」という男を、10人中10人までが人を殺した犯人だと思うでしょう。そう思うに違いありません。ところがすべて済ませた後の御子柴は、何程もないようにしてマイカーのベンツに乗り込み職場へ向かいます。

いつもするように車載オーディオの再生ボタンを押すと、流れてきたのはベートーヴェンのピアノソナタ〈熱情〉という曲。すべてがすっかり耳に染み込んでいるが、それでも実際に音を聞くとまるで精神安定剤のように作用する、などという思いに耽っています。で、彼が到着したのは〈御子柴法律事務所〉。御子柴礼司は、まぎれもない弁護士なのです。
・・・・・・・・・・
彼にはもうひとつ、『園部信一郎』という名前があります。どちらが本名かといえば『園部信一郎』こそがそうで、『御子柴礼司』という名は信一郎が思い付いてつけたもの。かつて関東医療少年院に送致された際、一からやり直すために名前までをも新しくすると言われてつけた - 鑑別所で見た特撮ヒーローの主人公の名前なのです。

中学生だった彼はさしたる理由がないままに幼い少女を殺害し、その上遺体をバラバラに切り刻んでは、生首をとある郵便ポストの上に、翌日には右脚を幼稚園の玄関にと、一日に一部分ずつの遺体を置いて回るという残忍極まりない事件を起こして逮捕されています。

世間は犯人を〈死体配達人〉と名付けて恐怖した、当時14歳だった少年・信一郎こそ現在の御子柴礼司なのです。少年院時代に弁護士になると決意した御子柴は、数年後、みごとその通りに司法試験に合格します。

仕事を始め、やがて独立し、今では「孤高の悪辣弁護士」などと呼ばれています。彼がするのは決まって法外な報酬が約束された仕事で、依頼主が誰かは問いません。彼の弁護は鉄壁で、およそどうにもならない事案を執行猶予付きにし、無罪にもしてみせます。

ところが、どういう按配でか、ときに御子柴は一文の得にもならない国選弁護を引き受けたりもします。今回彼が引き受けたのは、狭山市の中小企業・東條製材所をめぐる事件で、積載限度を超えたトラックのワイヤーが切れて木材が落下、経営者・東條彰一の頭を強打し、彼は意識不明の重体となります。

その後彰一は入院先で亡くなるのですが、その際何者かが人工呼吸器を故意に遮断した疑いが浮上します。彰一の容態が急変したとき病室にいたのは、妻の美津子と先天性の脳性麻痺を抱える18歳の息子・幹也の二人だけです。

やがて電源スイッチから美津子の指紋が検出され、彼女は殺人容疑で逮捕されます。当初警察やマスコミは美津子に同情的だったのですが、事故の10日前、3億円の保険契約が交わされていることを明かす証書が発見されたことから事態は一変します。

美津子は求刑通りに、無期懲役の判決を受けます。その後さらに彼女の疑惑を深めるような事実が判明して控訴審でも敗れてしまうのですが、弁護人が上告を申し立てたところで体調不良で入院、審議不能になります。そこで弁護を引き継いだのが御子柴だったのです。

御子柴礼司の普通ならざる来歴と、東條家に起きた事故と事件の謎。ふたつは、いずれも「罰せられない罪を背負った者」の物語、その者らが何をもって贖罪と為すかが語られています。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆中山 七里
1961年岐阜県生まれ。
花園大学文学部国文科卒業。

作品 「切り裂きジャックの告白」「追憶の夜想曲」「七色の毒」「さよならドビュッシー」「おやすみラフマニノフ」「いつまでもショパン」「連続殺人鬼カエル男」他多数

関連記事

『 i (アイ)』(西加奈子)_西加奈子の新たなる代表作

『 i (アイ)』西 加奈子 ポプラ文庫 2019年11月5日第1刷 『サラバ!

記事を読む

『桜の首飾り』(千早茜)_書評という名の読書感想文

『桜の首飾り』千早 茜 実業之日本社文庫 2015年2月15日初版 あたたかい桜、冷たく微笑む

記事を読む

『珠玉の短編』(山田詠美)_書評という名の読書感想文

『珠玉の短編』山田 詠美 講談社文庫 2018年6月14日第一刷 作家・夏耳漱子は掲載誌の目次に茫

記事を読む

『朱色の化身』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『朱色の化身』塩田 武士 講談社文庫 2024年2月15日第1刷発行 事実が、真実でないとし

記事を読む

『妻が椎茸だったころ』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『妻が椎茸だったころ』中島 京子 講談社文庫 2016年12月15日第一刷 オレゴンの片田舎で出会

記事を読む

『湯を沸かすほどの熱い愛』(中野量太)_書評という名の読書感想文

『湯を沸かすほどの熱い愛』中野 量太 文春文庫 2016年10月10日第一刷 夫が出奔し家業の銭湯

記事を読む

『ゴースト』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『ゴースト』中島 京子 朝日文庫 2020年11月30日第1刷 風格のある原宿の洋

記事を読む

『さよなら、ビー玉父さん』(阿月まひる)_書評という名の読書感想文

『さよなら、ビー玉父さん』阿月 まひる 角川文庫 2018年8月25日初版 夏の炎天下、しがない3

記事を読む

『悪意の手記』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『悪意の手記』中村 文則 新潮文庫 2013年2月1日発行 死に至る病に冒されたものの、奇跡的

記事を読む

『ざらざら』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『ざらざら』川上 弘美 新潮文庫 2011年3月1日発行 風の吹くまま旅をしよう、と和史が言

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『メイド・イン京都』(藤岡陽子)_書評という名の読書感想文

『メイド・イン京都』藤岡 陽子 朝日文庫 2024年4月30日 第1

『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『あいにくあんたのためじゃない』柚木 麻子 新潮社 2024年3月2

『執着者』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『執着者』櫛木 理宇 創元推理文庫 2024年1月12日 初版 

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑