『生きる』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『生きる』乙川 優三郎 文春文庫 2005年1月10日第一刷


生きる (文春文庫)

亡き藩主への忠誠を示す「追腹」を禁じられ、生き続けざるを得ない初老の武士。周囲の冷たい視線、嫁いだ娘からの義絶、そして息子の決意の行動 - 。惑乱と懊悩の果て、失意の底から立ち上がる人間の強さを格調高く描いて感動を呼んだ直木賞受賞作他、「安穏河原」「早梅記」の二篇を収録した珠玉の中篇集。(文春文庫)

「時代小説はどうも・・・」という方にこそお勧めしたい一冊です。読むと必ず「今」を感じることになります。今いる自分、今まで生きた己の半生を思い返さずにはいられなくなります。
・・・・・・・・・
病質と心労で寝込んでいる(妻)佐和の顔を見てから、又右衛門は久し振りに、部屋の障子を開けて、菖蒲の咲く庭を眺めています。五十にもなって情けないものだ・・・・、又右衛門はこの十日が一夜の夢であってくれたらと、ふとそんな思いに耽っています。

筆頭家老・梶谷半左衛門の言葉を信じ従ったことで、又右衛門がこれまで信じて疑わなかった武家の概念というものが、見る間に変化を見せます。そしてそのことは、その後の又右衛門の人生に、取り戻せない、大きな後悔を残すことになります。

自分のことはともかくも、それは息子や娘、身の内の多くにも及び、計り知れない不幸を招くことになります。又右衛門は、もはや生きてゆく自信や気概といったものをまるで失くした、「生きて死んだ」人のようになり果てます。

殉死は真鍋恵之助(又右衛門の娘・けんの夫)が最後ではなく、それどころか飛騨守(ひだのかみ:藩主)の葬儀の日に三人、その後もひとりまたひとりと続き、遺族が病死と届け出たものも加えると昨日までに十七名が追腹(おいばら)を切っている。

そこまで数が増すと、禁令はあってないに等しく、次は石田又右衛門か小野寺郡蔵かと囁かれ、城にいても肘でつつかれるようで落ち着かない日が続いた。

「追腹」とは、家来が主君の死のあとを追って切腹することをいいます。「供腹」ともいい、世話になった主君に対する奉謝と忠誠の気持ちを、自らの死をもって知らしめること、当時、武士と生まれた者にとっては先から承知の覚悟だったわけです。

又右衛門は、言われるまでもなく、とうに死ぬつもりでいたのでした。それを、若い家老の梶谷が「するな」と命じ、すれば処罰を与えると決めたのでした。

又右衛門と郡蔵を前にして、家老はこう言い募ります。「わしはな、小野寺、そなたにも石田にも生きてもらいたいと考えておる、禁令をもってしてもおそらく追腹はなくなるまい、逆に抗議の意味で腹を切るものが現れるかもしれん、

うまく数が減れば減ったで他家の嘲笑をあびるであろう、しかしそれでも追腹はなくしたい、同じ命を捧げるのであれば、まこと御家のためになることに捧げるのが家臣の務め、そのことを生きてその身で示してもらいたいのだ」

「卑怯もの、臆病もの、恩知らずと罵られるであろう、わしにはそれを止めることもたいした手助けもできぬ、それだけ二人にはつらく長い戦いになるであろう、だが必ずや汚名を雪ぐ日は来る」

「どうであろう、今日ここで死んだつもりで生きてくれぬか、殿もそれでよいと仰せられるに違いない、いずれ宗之さま(次の藩主)にもわしから事実を申し上げよう」

そう言われて二人は返す言葉が見当たらず黙り込んでしまうと、梶谷家老は承諾したものとして二人の前に用意していた誓紙を差し出します。

いかなる場合にも決して腹を切らぬこと、それが藩命であることを他言せぬこと、そしてその二点を守る限り両家の存続を保証するという一文を加えた起請誓紙を差し出され、その場の苦痛から逃れるように小野寺がまず筆を取り、又右衛門が後に続きます。

二人の武士にとり、それは辛すぎる苦渋の末の判断で、その先二人に待っているのは、それをも凌ぐ惑乱と懊悩、長い長い屈辱の日々 - であるわけですが、不意を衝かれた動揺もあり、二人が真に覚悟を決めるのは、もう少しあとのことになります。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


生きる (文春文庫)

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」「ロゴスの市」「太陽は気を失う」「トワイライトシャッフル」他多数

関連記事

『夏目家順路』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『夏目家順路』朝倉 かすみ 文春文庫 2013年4月10日第一刷 夏目家順路  

記事を読む

『ぼくとおれ』(朝倉かすみ)_たったひとつの選択が人生を変える。ってかあ!?

『ぼくとおれ』朝倉 かすみ 実業之日本社文庫 2020年2月15日初版 ぼくとおれ (実業之

記事を読む

『お引っ越し』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『お引っ越し』真梨 幸子 角川文庫 2017年11月25日初版 お引っ越し 内見したマンショ

記事を読む

『幸福な日々があります』(朝倉かすみ)_恋とは結婚とは、一体何なのか?

『幸福な日々があります』朝倉 かすみ 集英社文庫 2015年8月25日第1刷 幸福な日々があ

記事を読む

『奴隷商人サラサ/生き人形が見た夢』(大石圭)_書評という名の読書感想文

『奴隷商人サラサ/生き人形が見た夢』大石 圭 光文社文庫 2019年2月20日初版 奴隷商人

記事を読む

『I’m sorry,mama.』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『I'm sorry,mama.』桐野 夏生 集英社 2004年11月30日第一刷 I’m s

記事を読む

『エヴリシング・フロウズ』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『エヴリシング・フロウズ』津村 記久子 文春文庫 2017年5月10日第一刷 エヴリシング・フ

記事を読む

『霧/ウラル』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『霧/ウラル』桜木 紫乃 小学館文庫 2018年11月11日初版 霧 (小学館文庫) 北海道

記事を読む

『青が破れる』(町屋良平)_書評という名の読書感想文

『青が破れる』町屋 良平 河出書房新社 2016年11月30日初版 青が破れる この冬、彼女

記事を読む

『いちばん悲しい』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『いちばん悲しい』まさき としか 光文社文庫 2019年10月20日初版 いちばん悲しい (

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『魯肉飯のさえずり』(温又柔)_書評という名の読書感想文

『魯肉飯のさえずり』温 又柔 中央公論新社 2020年8月25日初版

『理系。』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『理系。』川村 元気 文春文庫 2020年9月10日第1刷 理

『樽とタタン』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『樽とタタン』中島 京子 新潮文庫 2020年9月1日発行 樽

『ミーナの行進』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『ミーナの行進』小川 洋子 中公文庫 2018年11月30日6刷発行

『破局』(遠野遙)_書評という名の読書感想文

『破局』遠野 遙 河出書房新社 2020年7月30日初版 破局

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑