『水声』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『水声』川上 弘美 文春文庫 2017年7月10日第一刷


水声 (文春文庫)

1996年、わたしと弟の陵はこの家に二人で戻って来た。ママが死んだ部屋と、手をふれてはならないと決めて南京錠をかけた部屋のある古い家に。夢に現われたママに、わたしは呼びかける。「ママはどうしてパパと暮らしていたの」- 愛と人生の最も謎めいた部分に迫る静謐な長編。読売文学賞受賞作。(文春文庫)

時は1969年。昭和44年の、ある夏の日からこの物語は始まります。小説は、幾つもの過去と現在をたえず行き来しながら進んでゆきます。これはある姉弟の物語であり、彼らにとって他にない唯一の存在、在りし日の〈ママ〉を語った物語でもあります。

ある姉弟がいます。姉は都(みやこ)、弟を陵(りょう)といいます。二人は1つ違いの、とても仲の良い姉弟です。それぞれにつつがなく成長し、やがて二人は家を出て一人暮らしを始めます。いくつか恋はするものの、二人して結婚までには至りません。

50歳と少しでママが癌で死んだあと、一人家に残った〈パパ〉はマンション暮らしを始めます。それから10年、無人のままで古くなった元いた家に、家族は再び移り住むようになります。その時都は39歳、陵は38歳になっています。

(印象的なシーン)  ずいぶんと歳を取ったあと、二人は来し方を思い、陵がある出来事を振り返り、しみじみと語りかけるところ。

倒れている女の人は、人形みたいに見えた。手足がたよりなくて、あ、これはもうだめなんじゃないかと思った。怖かった。(中略)死そのものをあからさまに見たのは、その時が初めてだった。ママが死んだ時よりも、その女の人の死ははるかに生々しくそこにあった。

サリンという言葉を知ったのは後だったけれど、ひどく理不尽なものがやってきて女の人の時間を突然ぶったぎって行ったんだと、はっきり理解していた。

おれは、死を見たくなかった。少しでも早く死から逃れようと、会社に急いだ。ビルの清潔なエントランスを抜けていつものフロアに入ってしまえば、死など存在しないふりができるから。

あのころ、おれたちは死から遠かったね。おれが若かったからじゃなくて、なんだかおれたち全体が死を見ないようにしていた気がしない?

だけど、阪神の地震があったあとのサリンの事件は、おれを死に引き寄せてしまった。平原に埋まる地雷のように、死はそのへんにいくらでもあって、軽くでも踏んでしまえば、すぐさまおれを摑まえにきてしまうんだって、おれにはよくわかった。

「都」 陵は姉のことをそう呼びます。

ぴったりと陵の体に寄り添っているので、都には陵の顔が見えません。少し離れて、都は陵の目を、くちびるを、鼻のあたまを、じっと見つめます。

「陵」 弟に向かい、都はそう呼び返します。

からめていた指を、わたしたちは解き放った。互いの体を、さらに深く、もっと深く、さぐりあうために。

読み出すと、どこかしらあやし気な空気が漂っているのがわかります。二人はすでにただならぬ関係で、それを言えばママとパパ、他に登場する武治さんだってそうに違いなく、彼らは家族や身内の関係という枠組みをおしなべて逸脱し、それをそうとは思わず暮らしています。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


水声 (文春文庫)

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「どこから行っても遠い町」他多数

関連記事

『鈴木ごっこ』(木下半太)_書評という名の読書感想文

『鈴木ごっこ』木下 半太 幻冬舎文庫 2015年6月10日初版 鈴木ごっこ (幻冬舎文庫)

記事を読む

『老後の資金がありません』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『老後の資金がありません』垣谷 美雨 中公文庫 2018年3月25日初版 老後の資金がありませ

記事を読む

『緑の毒』桐野夏生_書評という名の読書感想文

『緑の毒』 桐野 夏生 角川文庫 2014年9月25日初版 緑の毒 (角川文庫) &nb

記事を読む

『夫の墓には入りません』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『夫の墓には入りません』垣谷 美雨 中公文庫 2019年1月25日初版 夫の墓には入りません

記事を読む

『図書室』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『図書室』岸 政彦 新潮社 2019年6月25日発行 図書室 あの冬の日、大阪・淀川の

記事を読む

『今昔百鬼拾遺 河童』(京極夏彦)_書評という名の読書感想文

『今昔百鬼拾遺 河童』京極 夏彦 角川文庫 2019年6月15日再版 今昔百鬼拾遺 河童 (

記事を読む

『二人道成寺』(近藤史恵)_書評という名の読書感想文

『二人道成寺』近藤 史恵 角川文庫 2018年1月25日初版 二人道成寺 (角川文庫)

記事を読む

『四月になれば彼女は』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『四月になれば彼女は』川村 元気 文春文庫 2019年7月10日第1刷 四月になれば彼女は

記事を読む

『新宿鮫』(大沢在昌)_書評という名の読書感想文(その2)

『新宿鮫』(その2)大沢 在昌 光文社(カッパ・ノベルス) 1990年9月25日初版 新宿鮫

記事を読む

『スクラップ・アンド・ビルド』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文

『スクラップ・アンド・ビルド』羽田 圭介 文芸春秋 2015年8月10日初版 スクラップ・アン

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『魯肉飯のさえずり』(温又柔)_書評という名の読書感想文

『魯肉飯のさえずり』温 又柔 中央公論新社 2020年8月25日初版

『理系。』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『理系。』川村 元気 文春文庫 2020年9月10日第1刷 理

『樽とタタン』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『樽とタタン』中島 京子 新潮文庫 2020年9月1日発行 樽

『ミーナの行進』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『ミーナの行進』小川 洋子 中公文庫 2018年11月30日6刷発行

『破局』(遠野遙)_書評という名の読書感想文

『破局』遠野 遙 河出書房新社 2020年7月30日初版 破局

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑