『夜明けの音が聞こえる』(大泉芽衣子)_書評という名の読書感想文

『夜明けの音が聞こえる』大泉 芽衣子 集英社 2002年1月10日第一刷

何気なく書棚を眺めていて目に付いたので抜き出してみると、帯は綺麗に残っていてアンケートはがきや新刊案内のチラシも挟まったままでした。
ということは、おそらく、いや間違いなく私はまだこの本を読んではいなかったのです。

初めて見る名前で帯に何かの文学賞を受賞した本だと書いてあれば、とりあえず手あたり次第に買っていた時期がありました。
新人の本が好きで、賞の付くものに弱かったのです。この本もきっとそんな動機で買った中の一冊だと思いますが、やっと読む機会が巡ってきたということです。

・・・・・・・・・・

歴彦という珍しい名前の高校生が主人公です。

歴彦は一人遊びに耽るうちに、一言も話さずにどれくらいの時間をすごせるかという遊びを思いつきます。
失敗したときの罰まで決めて、歴彦は自ら声を封じ込めるのですが、気が付くと本当に声が出なくなってしまっていたのです。

学校へは行かず、家族も遠ざける歴彦ですが、母親が探してきた施設に通い治療を受けることになります。
治療の一環として犬吠埼にある観光ホテルで働くことになった歴彦ですが、声が出ないせいでなかなか周囲に溶け込めず、仕事も要領よく出来ません。

あるとき、誤解がもとで仕事仲間から執拗ないじめを受けたために、歴彦はホテルを辞めて家に帰ることになります。
ホテルを辞めたあと歴彦は新聞配達の仕事を始めるのですが、これも長続きはしません。雨の朝、無理やり起き出して配達には出たものの、夕刊の配達は休んでしまうのでした。

その日、空腹を満たすために入ったイタリアン・カフェで、とうとう我慢の限界を超えた歴彦は暴れ出し、店員が止めるのを振り切って逃げ出します。
それは、店内の猥雑な「声」や下品な「音」に耐えられなかったこと。隣の老婆がひとり食べ慣れないピザを無様に掬う姿が、どうにも始末に負えないものに思えたこと。
それらが、犬吠で受けた惨いいじめを喚起した結果でした。

歴彦が抱える悩みは間違いなく現代ならではのもので、実生活とはかけ離れた心の隙間に浮遊するわがままな代物です。

「平凡で安穏とした過去を恥じていた」とは何と贅沢で、大胆な言い分でしょう。欲しかったのは病ではなく、「クライマックスの予感」だと言うのです。

どうせ不幸なら中途半端なものでなく、絶望的に不幸でありたい。小さなかすり傷ではなく、命の瀬戸際で呻くような深傷を負いたい。
時として人はネガティブな願望に憑りつかれてしまうことがあります。自らの出目や他者との関係性を素直に受け入れられないような場合、その傾向は顕著になるはずです。

結果はどうあれ、作者が伝えたかったことは、多くの人に内在するその理不尽な衝動のかたちだったのです。

この小説は、第25回のすばる文学賞を受賞しています。髪はショートで丸顔の、ボーイッシュな姿の作者が他の受賞者と並んで案内チラシに掲載されています。
誕生日から逆算すると、写真に写る大泉芽衣子はまだ20歳の後半という若さです。
その後数冊の本は出しているようですが、残念ながら最近のものは見当たりません。

この本を読んでみてください係数 75/100


◆大泉 芽衣子

1973年埼玉県北葛飾郡生まれ。

早稲田大学第二文学部卒業。

作品 「降ろされた物語のために」「PLUTO」「父と遊んで」など

◇ブログランキング

応援クリックしていただけると励みになります。
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

関連記事

『やぶへび 』(大沢在昌)_書評という名の読書感想文

『やぶへび 』大沢 在昌 講談社文庫 2015年1月15日第一刷   甲賀は女好きですが、女運

記事を読む

『午後二時の証言者たち』(天野節子)_書評という名の読書感想文

『午後二時の証言者たち』天野 節子 幻冬舎文庫 2017年10月10日初版 八歳の女児が乗用車に撥

記事を読む

『新装版 汝の名』(明野照葉)_書評という名の読書感想文

『新装版 汝の名』明野 照葉 中公文庫 2020年12月25日改版発行 三十代の若

記事を読む

『晩夏 少年短篇集』(井上靖)_書評という名の読書感想文

『晩夏 少年短篇集』井上 靖 中公文庫 2020年12月25日初版 たわいない遊び

記事を読む

『歪んだ波紋』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『歪んだ波紋』塩田 武士 講談社文庫 2021年11月16日第1刷 マスコミの 「

記事を読む

『余命二億円』(周防柳)_書評という名の読書感想文

『余命二億円』周防 柳 角川文庫 2019年3月25日初版 工務店を営んでいた父親

記事を読む

『藍の夜明け』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『藍の夜明け』あさの あつこ 角川文庫 2021年1月25日初版 ※本書は、2012

記事を読む

『夜の谷を行く』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『夜の谷を行く』桐野 夏生 文芸春秋 2017年3月30日第一刷 39年前、西田啓子はリンチ殺人の

記事を読む

『俳優・亀岡拓次』(戌井昭人)_書評という名の読書感想文

『俳優・亀岡拓次』戌井 昭人 文春文庫 2015年11月10日第一刷 亀岡拓次、37歳、独身。

記事を読む

『夢見る帝国図書館』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『夢見る帝国図書館』中島 京子 文春文庫 2022年5月10日第1刷 「ねえ、どう

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『羆嵐』(吉村昭)_書評という名の読書感想文

『羆嵐』吉村 昭 新潮文庫 2026年12月20日 62刷発行

『妊娠カレンダー』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『妊娠カレンダー』小川 洋子 文春文庫 2020年12月20日 第2

『カフェーの帰り道』(嶋津輝)_書評という名の読書感想文

『カフェーの帰り道』嶋津 輝 東京創元社 2026年1月23日 4版

『きっと君は泣く』(山本文緒)_書評という名の読書感想文

『きっと君は泣く』山本 文緒 角川文庫 2026年1月25日 改版初

『彼女たちが隠したかったこと』(一木けい)_書評という名の読書感想文

『彼女たちが隠したかったこと』一木 けい 角川文庫 2026年1月2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑