『デフ・ヴォイス/法廷の手話通訳士』(丸山正樹)_書評という名の読書感想文

『デフ・ヴォイス/法廷の手話通訳士』丸山 正樹 文春文庫 2015年8月10日第一刷

仕事と結婚に失敗した中年男・荒井尚人。今の恋人にも半ば心を閉ざしているが、やがて唯一の技能を活かして手話通訳士となる。ろう者の法廷通訳を務めていたら若いボランティア女性が接近してきた。現在と過去、二つの事件の謎が交錯を始め・・・。マイノリティーの静かな叫びが胸を打つ。衝撃のラスト! (文春文庫解説より)

「知らなかったことをたくさん教えてもらいながら、ミステリーを楽しめる贅沢な一冊でした」- 一般読者から寄せられたこんな感想が、この小説を一番言い得ているのではないかと思います。

もう少し具体的に言うと(解説の三宮麻由子さんが書いてくれているのですが)、「まるで本全体が聴覚障害の世界を通訳してくれているような爽やかな距離感をもち、優しい愛に満ちた作品」ということになります。

特に「爽やかな距離感」という点が肝要です。障害者目線を特段際立たせたり、啓蒙的な部分が鼻に付いたりといったところがまったくありません。ごく普通のミステリー(かなりの「上物」です)として読むうちに、自然に「ろう者」の実情を知ることができます。
・・・・・・・・・・
まず感じるのは、「自分が何も知らない」ということ。様々なハンデを抱えながら生きている人たちがいることは知っていても、それ以外のこと、具体的に当事者がどんなことに心を砕き、何を心の支えにしているかなどは、実は何も知らないのだということです。

身近に当事者がいるかいないかということもあるでしょうが、昨日までまるで他人事だったであろう世界を一から知ろうとしてそれを成した、著者のこころざしと労力にまず敬意を払わなければなりません。

ほんの一端ですが、小説中に出てくる聴覚障害についての基礎知識を紹介しておきたいと思います。まず、一般的に「聴こえない人」のことは「聴覚障害者」という表現を使います。以前は「聾啞者」という言葉が使われていました。少し年配の方なら聞き慣れた言葉だと思います。対して、「聴こえる人」のことは「健常者」もしくは「健聴者」です。

これに対し、「聴こえない人」の側は、自らを称するのに「ろう者」という表現を好んで使います。かつての「聾啞者」から「啞」(=話せないことの意)を除いたのは、「自分たちは聴こえないが話せないわけではない」という意思の表れ。「ろう者」に対しては「健聴者」と言わずに「聴者」と言います。単に「聴こえる人」という意味です。

次に、手話について。一般的に知られている手話 - 日本語に手の動きを一つ一つ当て嵌めていく方法は「日本語対応手話」と呼ばれ、手話サークルや手話講習会などで学ぶのはほとんどがこれです。

これに対し、ろう者が昔から使っているものは「日本手話」と呼ばれ、日本語の文法とは全く違った独自の言語体系を持っています。従って、生まれた時から使っているろう者でなければその習得はかなりの困難を極め、使いこなせる者はそう多くはありません。

そして最後は、「コーダ」と呼ばれる人のこと。実はこの物語の主人公である荒井尚人自身がそうなのですが、彼は「コーダ」(Children of Deaf Adults の頭文字を取って名付けられた呼称)=ろう者の親の子ども、聴覚にハンデをもつ「ろう者」同士の間に生まれた、〈耳の聞こえる子供〉のことを指してそう呼びます。

尚人の幼い頃の記憶は、非常に複雑です。家族が全部耳が聴こえない中で唯一「聴こえる人」として育った尚人は、結局家族から疎外されることになり、彼もまた「聴こえない」両親や兄と本当に分かり合うことはできなかったのです。

両親が手話を使う「コーダ」は、音声による日本語より先に手話を覚えるために、心理的には「ろう者」であるとも言われています。尚人もそんな思いを持ちながら社会に出て行くわけですが、一歩外へ出れば彼は「健常者」であり、「普通の人」なのです。

彼は自分が「コーダ」であるという事実を抱えながら、20年間警察の事務職として働き、わけあって43歳で失職し、やむなく手話通訳の仕事に就くことになります。最初、尚人にとってそれは単に適当な仕事がなかった故のとりあえずの手段でしかなかったのです。

ところが、彼がかつて関わった事件(「コーダ」としての彼が味わった実に苦々しい記憶が残る事件)によく似た殺人事件が発生したかと思いきや、彼自身がその事件の渦中に放り込まれるという思わぬ事態になります。

しかしながら、よくよく考えてみると、彼が事件に巻き込まれたのは当然のことだったのかも知れません。彼は、良くも悪くも、「声なき声を聴く」能力を備えた、希少な人間です。Deaf Voice -「ろう者の声」を正しく聞くことができるのは、尚人がデフ・ファミリーに生まれた子どもであるが故の、抗えない運命だったのです。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆丸山 正樹
1961年東京都生まれ。
早稲田大学第一文学部演劇科卒業。フリーランスのシナリオライター。

作品 「デフ・ヴォイス」で小説家デビュー。

関連記事

『どうしてわたしはあの子じゃないの』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文

『どうしてわたしはあの子じゃないの』寺地 はるな 双葉文庫 2023年11月18日 第1刷発行

記事を読む

『正しい愛と理想の息子』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文

『正しい愛と理想の息子』寺地 はるな 光文社文庫 2021年11月20日初版1刷 物

記事を読む

『レキシントンの幽霊』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

『レキシントンの幽霊』(沈黙)村上 春樹 文春文庫 1999年10月10日第1刷 『レキシントン

記事を読む

『あなたの涙は蜜の味|イヤミス傑作選』(宮部みゆき 辻村深月他)_書評という名の読書感想文

『あなたの涙は蜜の味|イヤミス傑作選』宮部みゆき 辻村深月他 PHP文芸文庫 2022年9月22日

記事を読む

『新しい花が咲く/ぼんぼん彩句』(宮部みゆき)_書評という名の読書感想文

『新しい花が咲く/ぼんぼん彩句』宮部 みゆき 新潮文庫 2025年12月1日 発行

記事を読む

『走れ! タカハシ』(村上龍)_書評という名の読書感想文

『走れ! タカハシ』村上龍 講談社 1986年5月20日第一刷 あとがきに本人も書いているの

記事を読む

『第8監房/Cell 8』(柴田 錬三郎/日下三蔵編)_書評という名の読書感想文

『第8監房/Cell 8』柴田 錬三郎/日下三蔵編 ちくま文庫 2022年1月10日第1刷

記事を読む

『太陽の坐る場所』(辻村深月)_書評という名の読書感想文

『太陽の坐る場所』辻村 深月 文春文庫 2011年6月10日第一刷 高校卒業から十年。元同級生

記事を読む

『テミスの剣』(中山七里)_テミスの剣。ネメシスの使者

『テミスの剣』中山 七里 文春文庫 2017年3月10日第1刷 昭和五十九年、台風

記事を読む

『とんこつQ&A』(今村夏子)_書評という名の読書感想文

『とんこつQ&A』今村 夏子 講談社 2022年7月19日第1刷 真っ直ぐだから怖

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『羆嵐』(吉村昭)_書評という名の読書感想文

『羆嵐』吉村 昭 新潮文庫 2026年12月20日 62刷発行

『妊娠カレンダー』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『妊娠カレンダー』小川 洋子 文春文庫 2020年12月20日 第2

『カフェーの帰り道』(嶋津輝)_書評という名の読書感想文

『カフェーの帰り道』嶋津 輝 東京創元社 2026年1月23日 4版

『きっと君は泣く』(山本文緒)_書評という名の読書感想文

『きっと君は泣く』山本 文緒 角川文庫 2026年1月25日 改版初

『彼女たちが隠したかったこと』(一木けい)_書評という名の読書感想文

『彼女たちが隠したかったこと』一木 けい 角川文庫 2026年1月2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑