『愛の夢とか』(川上未映子)_書評という名の読書感想文
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『愛の夢とか』川上 未映子, 作家別(か行), 川上未映子, 書評(あ行)
『愛の夢とか』川上 未映子 講談社文庫 2016年4月15日第一刷
あのとき、ふたりが世界のすべてになった - 。ピアノの音に誘われて始まった女どうしの交流を描く表題作「愛の夢とか」。別れた恋人との約束の植物園に向かう「日曜日はどこへ」他、なにげない日常の中でささやかな光を放つ瞬間を美しい言葉で綴った七つの物語。谷崎潤一郎賞受賞作にして著者初の短編集。(講談社文庫より)
川の近くに家を買った2ヶ月後にとても大きな地震がきて、「わたし」はしばらくはゆううつでぐったりしていた。ひと月がたち、緊張も心配もゆううつもどんどん薄まりはじめて、気がつけばぼんやりした春を通過していて、ばらなんかを買ってみたというわけだ。
みんな花でも買って、なんか日常っぽい感じを演出して安心とかしたいのかなと夫に言うと、そういうのはあるだろうね、と話はそこで終わってしまった。夫の帰りは遅く、わたしはひとりで過ごす一日をいったい何で埋めているのか、
ふだん考えることはないけれど、だからときどき考えてみようとすると気がめいるから、ほとんどしない。仕事もしていないし、妊娠しているわけでもないし、習い事もしていない。凝った料理をつくる根気も技もないし、ほんとうに何もしていない。
ソファで横になっていると、毎日どこからかピアノの音が聴こえてくる。けっこう上手くてはじめは録音した曲なのかと思ったけれど、途中で切れたりやりなおしたりしてるから誰かの練習だってことがわかる。
誰かはピアノを弾いているけど、わたしはピアノを弾いていない - と、ここでもまた自分の何もしていなさについて考えはじめると、どういうわけか、おでこのうらに真っ白なふすまみたいなのがぱたんぱたんと広がっていくのがみえて、
いつだったかそのまま昼寝をしたときにとても無駄な夢をみたから(気味が悪いとか怖いとかではないのがいかにもこの人らしい)、ああいうの、かかわりたくないなって思ってしまう。だけどやっぱりときどきは考えてしまうときもあるから、
このあいだはダイニングテーブルにむかってとりあえず、何って字を書いてみた。まったく意味のない時間だったけれど、それはそれで発見したこともあって、よくよく見ると何って字はわたしの顔にそっくりなのだ。
・・・・・・・・・・
表題作「愛の夢とか」の最初の部分を抜き書きにしてみました。このあと「わたし」は隣に住む初老の女性と知り合って、彼女が弾くピアノ曲、リストの「愛の夢」の練習につきあうことになります。
「誰かの耳があると必ず間違えちゃうのよ」とテリーは言い(初老の女性は自分のことをそう呼んでほしいと言います)、対するビアンカは(あなたのことは何て呼べばいい? と訊かれてわたしが適当に言った名前)繰り返し訪ねては辛抱強く彼女の練習に付き添い、
その甲斐あって、十三度目にしてとうとうテリーは最後まで間違えることなく弾き切ることができ、思わず二人は口づけをしました - という話。
中に出てくるマカロンの話が面白い。わたしが初めて初老の女性を訪ねる際の手土産として持参したのは駅前のマカロン専門店で買ったカラフルな大量のマカロンと、並びのデパートの地下にあった二番目に高い値段のついたさくらんぼの箱。
彼女の家はずいぶん広く、掃除がゆきとどいていて、家具には統一感がばっちりあって、ぜんぶのカーブには重そうな艶がのっていて、何もかもがいちいち高そうなものばかりに感じられます。
彼女はわたしが差し出したさくらんぼの箱とマカロンにありがとうとにっこり笑ってキッチンへゆき、しばらくしてコーヒーとマカロンを感じよく盛った皿と一緒にもどってきます。わたしはコーヒーを一口飲んでマカロンをつまんで前歯でちいさく齧ります。
ところでマカロンを買うときのあの気分っていったい何だろうといつも思う。自分が掛け値なしの馬鹿になったみたいな気持ちになっていっそ清々しくなるあの感じ。ただ甘いだけで蓋みたいなのも上顎にべったりくっついてうっとうしいし、そもそも名前がすごく間抜けだし、中身がないのにそれっぽいってだけで重宝されてみんなほいほい買っていくから値段が高いのもむかつくし、第一おいしいと思ったことなんてこれまでただの一度もないことを思いださせる、あの感じ。
- じゃあわたし、ピンクのをいただくわ。
- どうぞ、この黄色のもおいしいですよ。
こうしてテリーとビアンカの、穏やかなる近所付き合いが始まってゆきます。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆川上 未映子
1976年大阪府大阪市生まれ。
日本大学通信教育部文理学部哲学科在学中。
作品 「わたくし率 イン 歯-、または世界」「乳と卵」「ヘヴン」「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「すべて真夜中の恋人たち」他
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